くもの糸

このお話(はなし)の作者(さくしゃ)、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)という、今(いま)生(い)きていれば百(ひゃく)さいぐらいになってしまうおじいさんは、ざんねんながらじさつをしてしまったんだけど、たしかに、さもじさつしてしまいそうな文章(ぶんしょう)を、書(か)いているんだ。

君(きみ)たちは、この『くもの糸(いと)』の中(なか)に出(で)てくるカンダタというざい人(にん)を見(み)て、どう思(おも)うだろう。だれだって、自分(じぶん)が助(たす)かったほうがいいと思(おも)うよね。とくにさいきんは、自分(じぶん)だけよければいいという考(かんが)えがふつうになってしまったので、君(きみ)たちの本音(ほんね)はひそかにわかっているんだよ、このボクには。

血(ち)の池(いけ)、はりの山(やま)……。「じゃいったい、どうすればいいんだ」と思(おも)わず叫(さけ)んでしまいたくなるような暗(くら)いじょうけいだけど、どうもこれは本当(ほんとう)の社会(しゃかい)をおきかえているんじゃないかっていうふうに、思(おも)えてくるんだよね。そうなると、そこにいるざい人はふつうの人々(ひとびと)、自分(じぶん)だけが幸福(こうふく)になりたい、幸(しあわ)せになりたい、楽(たの)しみたい、そういう人々(ひとびと)っていうこと。そんな気(き)がするんだ。このお話(はなし)はそういうげんじつの人々(ひとびと)のことを、ざい人(にん)におきかえているようなんだよね。

じゃあこの天(てん)上界(じょうかい)は何(なに)かと言(い)えば、幸福(こうふく)な場所(ばしょ)、りそうとか、そういうことかもしれないね。しかし、そこで問題(もんだい)となるのは、このおしゃか様(さま)とくもの糸(いと)なんだ。

それぞれの人間(にんげん)には幸(しあわ)せになるチャンス、自分(じぶん)のすきなことをやっていくチャンスがあるんだけれど、そのときどうすれば、いったい糸(いと)が切(き)れないで、幸(しあわ)せにたどりつくことができるのか、ということが考(かんが)えどころになるというワケ。だって、このおしゃか様(さま)はけっきょく、人間(にんげん)をすくうことができないんだから。

さて、このお話(はなし)は、読書(どくしょ)感想(かんそう)文(ぶん)を書(か)く上(うえ)で、とても大事(だいじ)なことをわかりやすく教(おし)えてくれている。それはあるものを何(なに)ものかに"おきかえ"ているということな、んだ。じごく=本当(ほんとう)の世界(せかい)、カンダタとざい人(にん)=私(わたし)たち、くもの糸(いと)=チャンス・タイミング、天(てん)上界(じょうかい)(りそう・幸福(こうふく)・望(のぞ)み)おしゃか様(さま)=きじゅん・ちつじょ・じょうしき。そんなふうにおきかえていくことができるんだよね。そうすると、この暗(くら)いお話(はなし)が現実(げんじつ)のものとして、私(わたし)たちの身近(みぢか)なものになってくるよね。

このように、

①  かならずおきかえられている。

② そこにはふつうの人(ひと)、あるいは私(わたし)たち人間(にんげん)がかならずいる。

という二(ふた)つが読(よ)みとっていかなくてはいけないものとして、くっきりうかび上(あ)がってくるんだ。人間(にんげん)がまったく登場(とうじょう)しないものでも、やはり私(わたし)たちにとって、何ら(なんら)かのすがたや考(かんが)えを示(しめ)そうとしている。そんな意味(いみ)では、作品(さくひん)(お話(はなし)や物語(ものがたり)など)というのは、作者(さくしゃ)の何(なに)かをうったえたいとか、知(し)らせたいとかいうような、ある目的(もくてき)をもった道具(どうぐ)のようなものと言(い)っていいのかもしれないね。

 

 

 

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※出展:きみにも読書感想文が書けるよ(1989年)