とざんでんしゃとモンシロチョウ

とざんでんしゃとモンシロチョウ (あかねおはなし図書館)

長崎源之助・作 村上勉・絵 / あかね書房

 

この人(ひと)の文(ぶん)ってすてきだねぇ。先生(せんせい)も箱根(はこね)は大(だい)すき。思(おも)わずふっと腰(こし)をうかせて「行(い)こうかナ」なんて思(おも)ってしまいそうです。

ケンジ君(くん)とおじいちゃんとのやりとり、心(こころ)のかよいあっている者(もの)どうしの、会話(かいわ)だね。そこに、なにやら、幻想的(げんそうてき)なシロミちゃんが加(くわ)わっていきます。

読(よ)みようによって、目(め)のつけ所(どころ)によっては、いろんなふうに読(よ)んでいくことができそうです。

 

1.がんこ、へんくつ

ふつうじゃない人(ひと)や、ちょっと自分(じぶん)の考えを言(い)ったり、自分(じぶん)らしくしようとすると、人(ひと)は「すなおじゃなーい」「かわいくなーい」なんて言(い)ったりします。そしてそれが、おとなに対(たい)しては、「がんこ」とか「へんくつ」といわれるようになります。がんこはいけないのか、へんくつはいけないのか、と考(かんが)えてみることもできる。いいことじゃないか。自分(じぶん)にあった所(ところ)で自分(じぶん)らしく、自分(じぶん)なりにくらしていく。それはひょっとしたら、人(ひと)としてあたりまえのことかもしれない。なんでもみんなとおなじようにくらしていさえすればいい、というものではないように思(おも)うな。

おじいちゃんは、がんこだと言(い)われる。たしかにひとりっきりで、箱根(はこね)の山奥(やまおく)に住(す)んで、つぼを焼(や)いたり、電話(でんわ)をつかわなかったりして、ふつうじゃないように思(おも)うけれど、それは、おじいちゃんが、自分(じぶん)でえらんだ生活(せいかつ)なんだよね。人(ひと)がどうのこうのと言(い)ってるものではないように思(おも)う。

ケンジ君(くん)は〝おじいちゃんがすき”という。ひょっとしたら、おとなにくらべて、まだ気(き)ままなところのある子どもたちと、おじいちゃんとは、深(ふか)いところでつうじあうものがあるのかもしれないね。

人(ひと)と人(ひと)とのむすびつき、心(こころ)のかよい合(あ)い。それもこの話(はなし)の大(おお)きなテーマのひとつになると思(おも)うよ。

 

2.ケンジと口(くち)をきく

おじいちゃんもまた、ケンジ君(くん)がすきなんだ。ひとりでせっせと登山(とざん)電車(でんしゃ)に乗(の)ってやってくるまごを、いつもやさしく大(おお)きな心(こころ)で受(う)けとめているように思(おも)う。いろんなできごとをのりこえて、一日(いちにち)一日(いちにち)を重(かさ)ねて、年(とし)をとり、おじいちゃんになってきたんだ。そうした人(ひと)は、きっと子(こ)どもたちや、おとうさんおかあさんたちの何倍(なんばい)も、人生(じんせい)や人(ひと)の喜(よろこ)びや悲(かな)しみの見方(みかた)がわかるのかもしれない。

自然(しぜん)のなかで、自然(しぜん)を友として生(い)きていくという生(い)き方(かた)からも、そんなことがわかるようだよね。子(こ)どもってより、自然(しぜん)に近(ちか)いのかもしれない。

なんでかナー。

 

3.自然(しぜん)と友(とも)だち

そうしたことを言(い)う人(ひと)は多(おお)いよね。とくに自然(しぜん)を大切(たいせつ)にしようとか、自然(しぜん)な生(い)き方(かた)がいいという人(ひと)には、ね。けれど、このおじいちゃんの言(い)っていることは、ちょっとちがうようだ。何(なに)かわかっちゃってるような気(き)がする。森(もり)も山(やま)も鳥(とり)も小動物(しょうどうぶつ)も、もちろん人(ひと)も、みんな生(い)きていて、息(いき)づいていて、これをひとりの生(い)き物(もの)として、自分でもわかってる、知(し)ってる、そしていっしょに生(い)きていることを、実感(じっかん)してるんじゃないかナ、と思(おも)う。

君(きみ)のまわりのおじいちゃんやおばあちゃん、いなかにすんでいるおじいちゃんたちのすがたが、このまわりのけしき、自然(しぜん)にとけてしまってみえることなんかないかな。

人(ひと)としての見方(みかた)というよりも、もっと大(おお)きな、自然(しぜん)のひとコマとしての自分(じぶん)、というものをみることができちゃうのかもしれない。これ、すごいことかもしれない。

自然(しぜん)は友(とも)だち……ということばの意味(いみ)は、かなり深(ふか)いように思(おも)いますよ。

 

4.だましぶね

これはおり紙(がみ)であるよね。君(きみ)もやってみるといい。その気(き)になっていると、がらっと変(か)わってしまう。手品(てじな)のようなものと思(おも)ってもいい。けれど、これには考(かんが)えさせられるいいテーマが、いっぱいつまっているように思(おも)う。自分(じぶん)がホだと思(おも)っていたものは、つぎのしゅんかん船(ふね)のへさきになってしまっている。自分(じぶん)ができる子(こ)だぞ、と思(おも)っているとすぐにダメな子(こ)だと思(おも)わされてしまう。まんなかをつかんだつもりが、はしっこになってしまったり、山(やま)とみていたものが実(じつ)はクジラだったり……。手品(てじな)は、だましぶねだけにあるのではなく、世(よ)のなかのいろいろな場(ば)にあるように思(おも)う。自分(じぶん)の体験(たいけん)や知(し)っていることなどを思(おも)いかえして、そこから考(かんが)えを進(すす)めてみるのもいいかもしれない。

この本のなかでは、”電車(でんしゃ)のはじめに乗(の)ったのに、つけば最後(さいご)になっている”というのがかなりシンボルになっているから、それとの結(むす)びつきを解(と)くかぎともいえるね。

 

5.てっきょう

なんとなく気(き)になってしまう。谷間(たにま)をわたっていた人(ひと)が、科学(かがく)の力(ちから)、技術(ぎじゅつ)の力(ちから)で、そこに橋(はし)をかけ、しかも、それを丈夫(じょうぶ)にして、その上を電車(でんしゃ)で走(はし)れるようになる。

大自然(だいしぜん)、自然(しぜん)の大(おお)きさをさまざまにあらわしているこの本のなかでは、電車(でんしゃ)とならんで、人(ひと)の力(ちから)を示(しめ)すものとして、とりあげてみたいな。

いくら電車(でんしゃ)を作(つく)っても、それが走(はし)るレールがなければ何(なん)にもならない。そのレールが、山(やま)や谷(たに)にかけられるようになってはじめて、どんな山(やま)もけわしい場所(ばしょ)にも電車(でんしゃ)が行(い)くようになる。

それは「べんりになってよかった」というだけのことではなさそうだ。

ましておじいちゃんは、この山のなかに電話(でんわ)をきらって生(い)きている。そこに電車(でんしゃ)に乗(の)って会(あ)いに行(い)くケンジ君(くん)。何(なに)かをあらわしているように思(おも)えないかな。

自然(しぜん)と人の力、自然(しぜん)と科学……そうしたこともここから読(よ)んで、考(かんが)えていくことができそうだね。

 

6.ジグザグ

けわしく急(きゅう)な山(やま)をのぼるとき、たしかに<<というようにしないと、のぼってはいけない。一直線(いっちょくせん)にのぼることはできないんだよね。これも深(ふか)いことを語(かた)っているように思(おも)う。かんたんに山(やま)にのぼれるわけではなくて、いくら科学(かがく)の力(ちから)でも、苦労(くろう)はする。それをつつんで、大(おお)きな自然(しぜん)はデン!としてかまえているし、そのなかに、おじいちゃんも年(とし)や経験(けいけん)を積(つ)みあげて生(い)きている。

そうしたことを、イメージしてみよう。

 

7.花(はな)、山(やま)、自然(しぜん)

この本(ほん)をかいた人(ひと)は、もののあらわし方(かた)がとってもうまくて、ステキだよね。「--のような」というような文(ぶん)の作(つく)り方(かた)、そして、どのページにもでてくる、なんともいえないやわらかくて、大(おお)きくて、やさしい世界(せかい)。きっとこの作者(さくしゃ)の心(こころ)のなかも、そうなのかもしれないね。

花(はな)も自然(しぜん)も、自分(じぶん)が悲(かな)しいときは悲(かな)しい目(め)にうつるし、楽(たの)しいときは楽(たの)しい目(め)にうつる。きびしくみせたり、やさしくみせたり、先生(せんせい)のようにみせたり、自然(しぜん)はいつもちがう表情(ひょうじょう)をみせてくれます。なぜ作者(さくしゃ)は自然(しぜん)をそんなふうにあらわし、君(きみ)たちにみせようとしているか、これは読(よ)みといてみる価値(かち)がありそうだよ。

 

8.モンシロチョウ”ガクアジサイ”―白(しろ)いワンピースの少女(しょうじょ)

少女(しょうじょ)、というのはひとつのキーワードになってるよね。

何(なん)なんだろうと思(おも)ってしまうよね。最後(さいご)には、せいだということになってしまうがどうだろう。自然(しぜん)のなかにある白(しろ)、雪(ゆき)もチョウも白(しろ)い花(はな)もふくめて、白(しろ)がけがれなくて、うつくしくて、高貴(こうき)な、そして、何色(なにいろ)にもそまるようでいてそれだけでうつくしい、そんな色(いろ)として子(こ)どもや老人(ろうじん)や、そして自然(しぜん)、を示(しめ)そうとしているのかもしれないね。

君(きみ)もきっとそんな白(しろ)い少女(しょうじょ)に出会(であ)ってるんじゃないかな。

 

9.押(お)しいただ

なにげなく読(よ)みとおしてしまうけれど、おじいちゃんが、ケンジ君(くん)のおかあさんからのおみやげを押(お)しいただいた、ということは、またひとつの大切(たいせつ)な切(き)り口(くち)だと思(おも)う。

おじいちゃんは自分(じぶん)から進(すす)んで山(やま)にいるけれど、じつはそれはまわりの人(ひと)たちのやさしさやあたたかさ、そうした生き方(いきかた)を大切(たいせつ)にしていこうとする心(こころ)にかこまれてはじめて、できるものだといえる。

自分(じぶん)自身(じしん)の生(い)き方(かた)をつらぬくということは、本人(ほんにん)にとってはかっこいいことかもしれないし、また苦労(くろう)が多(おお)いことだけれど、それができるためには、まわりの人(ひと)の助(たす)けがなくてはならない。

自分(じぶん)を貫(つらぬ)く人(ひと)には、そのありがたさがわかるのかもしれない。おじいちゃんのこの気(き)もちは、ものに対(たい)してじゃなく、おかあさんやそれを運(はこ)んでくれたケンジ君(くん)……人(ひと)の情(なさ)けや思(おも)いやりに対(たい)してのもののように思(おも)う。

 

10.大(おお)きな手(て)

その手(て)でつぼをやき、そしてものをつかみ道具(どうぐ)を作(つく)り、子どもを抱(いだ)き、ものを食(た)べ……。手(て)をつかってヒトは人(ひと)となってきたし、文化(ぶんか)をつくってきた。おじいちゃんの大(おお)きな手(て)は、ときをいっぱいつかんできたんだろうね。その手(て)があらわしているものは何(なに)か。これを読(よ)んでいくと、この本のなかの重要(じゅうよう)なところが、わかってくるように思(おも)う。おじいちゃん=自然(しぜん)という見方(みかた)もできる。手=そのなかで生(い)きる人(ひと)の力(ちから)、という見方(みかた)ができる。つぼを作(つく)っても、それは自然(しぜん)のさまざまな材料(ざいりょう)を組み合(くみあ)わせたものでしかない。けれどそれは、人(ひと)が人(ひと)のちえによってしかできないものだ。小(ちい)さく自然(しぜん)を作(つく)り変(か)えることだともいえる。大(おお)きな手(て)はそれもあらわしている。

 

11.山(やま)をおりる

これはちょっとおどろきだった。いくらすすめてもがんこな人(ひと)だからおりないんじゃないかな、と思(おも)っていたのに、意外(いがい)とあっさりとおりてしまう。

なぜだろう。

○最高(さいこう)のつぼができた。  ○寒(さむ)くなる。

○少女(しょうじょ)がいなくなる。  ○すすめられた。

などいろいろあげられるだろうけれど、一番(いちばん)大切(たいせつ)なのは、「心(こころ)」だろうと思う。

すなおなんだよね。何(なに)もかも受(う)けとめ、受(う)けいれることのできる心(こころ)の広(ひろ)さ、白(しろ)を白(しろ)として受(う)けとめることのできるしょうじきさ、というものがこの老人(ろうじん)にはあるんだろうと思(おも)う。経験(けいけん)をつめば、白(しろ)いものがよごれていって黒(くろ)くなっていくように思(おも)うけれど、じつはそうではなくて、だんだんクリーニングされて白(しろ)く、こどもの心(こころ)のようになっていくと言(い)っているようにも思(おも)える。

おじいちゃんにとっては、なくなったおばあちゃんとの思い出(おもいで)もあるし、気(き)にいったすまいなんだから、はなれたくはないよね。けれどケンジ君(くん)とおりようとしている。春(はる)がきたら山(やま)にかえる。自然(しぜん)のままにすなおに生(い)きる姿勢(しせい)が、そこからみえるように思(おも)う。

 

12.白(しろ)い雪(ゆき)と春(はる)

みんなうめつくすような何(なん)万(まん)何億(なんおく)のモンシロチョウのような白(しろ)い花(はな)のような雪(ゆき)、こりゃ幻想的(げんそうてき)だよね。でも何回(なんかい)も味(あじ)わったことがあるな、そうなんだよね。冬(ふゆ)・雪(ゆき)っていうのは、みんなひとつの色(いろ)にしてしまう。白(しろ)い布(ぬの)を地上(ちじょう)にかぶせてしまうんだ。

白(しろ)い少女(しょうじょ)のイメージも、ここではっきりしてくるよね。

そしてまた、春(はる)は色(いろ)があざやかによみがえってくる。白(しろ)い布(ぬの)の下(した)には、もうつぎの色(いろ)の準備(じゅんび)がはじまっている。おじいちゃんとケンジ君(くん)もまた、そんなつながりなのかもしれない。

 

13.一番(いちばん)まえにすわったのに、一番(いちばん)おわりになっている

これはもっとも重要(じゅうよう)なキーワードだと思(おも)う。それを考(かんが)えるときに、ぎゃくに一番(いちばん)おわりにすわったのに一番(いちばん)まえになっている、ということもありうる、ということを考(かんが)えなくてはならないように思(おも)う。生(い)きていくことをジグザグの山(やま)のぼりや山(やま)下(くだ)りとみるなら、はじめもうしろも、まえもあとも、ひとつの地点(ちてん)からの見方(みかた)じゃないか、ということがわかってくる。

勉強(べんきょう)がトップだから人生(じんせい)はすべてトップかといえばそのはんたいのこともある。どれもこれも入生(いせい)だけど、自分(じぶん)の席(せき)は動(うご)かないでいても、いっつも変(か)わってしまうものだと。そうしたことに対(たい)しても、すなおであるべきだということも話(はな)しているのかもしれない。

最高(さいこう)に長(なが)生き(いき)した人(ひと)と、今(いま)生(う)まれたばかりの子(こ)は、もっとも近(ちか)いつながりにある。おなじような心(こころ)にあるということもできる。まえもあとも、そんなものはどうでもいいことなんだ、ということもいえる……。

じっくり考(かんが)えて、君(きみ)なりの意見(いけん)がでてくるといいと思(おも)うな。

 

*この文(ぶん)の世界(せかい)を、目(め)をつむって思(おも)いうかべてみよう。何回(なんかい)もその情景(じょうけい)を思(おも)いうかべてみると、静(しず)かに場面(ばめん)が動(うご)いていくのがわかる。作品(さくひん)のもち味(あじ)だよね。

そして、読(よ)むほどに味(あじ)わいが深(ふか)くなる。いい作品(さくひん)というのは、奥(おく)が深(ふか)いもの。それだけに、感想(かんそう)文(ぶん)は、浅(あさ)くわかってしまうようだとつまらないね。

 

 

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※出典:きみにも読書感想文が書けるよ パート2(1・2・3年向)(1990年)