紅玉

紅玉

後藤竜二・文 高田三郎・絵 新日本出版

りんごの季節になると、父が決まってぼくらに語り聞かせる話がある。

時は一九四五年、秋。戦争からもどったばかりの父は、毎日りんご畑をながめて、収穫の日を楽しみにしていた。

(もう、戦争に行かなくてもいいのだ……)

まだ戦地からもどってこない人たちもいたが、今年は家族や村の人びとといっしょに収穫ができる。

そんなおり、父のりんご畑がおそわれた。畑をおそったのはだれだったのか。

どんな事情があったのか。

いつまでも忘れることのできない記憶がある――。けっして忘れてはならない記憶がある――。人間の生き方、あり方を深く問いかけてくる傑作。

◎とっちゃまんのここに注目!

これまで、戦争の悲惨さを語る本は数多く出版されてきた。「戦争は悲惨です。平和は何よりも尊いものです」といった、フレーズの連呼にしかすぎない内容の本も多かった。

確かに、戦争の悲劇を知ることは必要だろう。でも、戦争のほんとうの悲惨さは、生きている人たちが自分の無力さをいやというほど思い知らされ、人以下の存在になってしまうことにある。尊厳も何もない。その悲惨さこそを知らなければならない。

今でも戦闘地域では、毎日いとも簡単に人が殺されている。そこにはルールなどない。戦争のもとでのルールは、敵を殺しても殺人罪には問われないということだろう。「法律やルールさえ守れば何をしてもいい」という考えの人たちは、もしかしたら人を殺しても平然としているかもしれない。

しかし、ルールよりも人の心の中にある道徳や倫理こそが大切なのだ。それは、いかなる場合にも、個人個人に問われていくべきものだ。これがボクの考えだ。

このストーリーには、戦争直後、もくもくと生きていこうとする生身の男の姿がえがかれている。心に問いかけてくる重さがある。きみの心をゆさぶることだろう。

・ストーリーを読みこもう

ストーリーを深く追ってみよう。

北の大地でのりんごの収穫。家族の生活をかけたりんごをうばっていく人たち。それはじつは、日本に強制連行されてきて、飢えに苦しんでいる中国や朝鮮の人たちだった。

戦争中、日本人も中国や朝鮮であらゆるものをうばい取った。主人公はそれを間近に見ていた。

戦争が終わり、日本に取り残された中国や朝鮮の人たちは、生きぬくために食べ物を得るしかない。しかし、りんごは主人公にとっては生きる糧だ。「父」がカタコトの中国語でしゃべるシーンに注目してほしい。「父」は日本語ではなく相手の言葉で話しかけ、相手を尊重し、やはり同じように生きていかなければならない自分の立場を示して、集団の前に立った。本来なら、袋だたきにされてもしかたがないところだ。混乱期だし、感情も高ぶっている。しかも、相手はやせこけて、骨と皮ばかりになった人びとだ。

けれども、「父」の思いは相手に伝わった。相手とかわした短い会話――。

なんともいえない感動がある。

みんながうばったりんごを置いて去っていく。そこにりんごの小山ができる。

声にならない思い――。文章は短いが、語られていることは重い。絵も、北の大地の暗さと心の中の暗さをえがきつつ、たくさんのことを伝えてくれる。

作者はそこに居合わせたわけではないのに、よくこういうシーンをえがけたなと思う。この場面に注目してほしい。

背景についても知っておこう。舞台は今の北海道美唄市。戦争中、強制連行されてきた朝鮮や中国の人びとは、炭鉱で過酷な労働を強いられていたという。

さて、きみはこの物語を簡単に読み飛ばしてしまうだろうか?自分の中に取りこんで、深くとらえ直すことができるだろうか?真っ正面から真剣に取り組んでくれることを願っている。

※上記の著作権は宮川俊彦にあります。
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※出典:読書感想文おたすけブック(2006年)