レオ・バスカーリア・作 みらいなな・訳 島田光雄・絵 / 童話社
葉っぱのフレディは、今年の春に生まれたばかり。でも夏には厚みのある りっぱな体に成長した。
フレディは、たくさんの葉っぱに囲まれて幸せだった。彼は、葉っぱのひとつひとつがみんなちがう形をしていることにびっくりした。となりのアルフレッド、右側のべン、すぐ上のクレア、そして、親友のダニエル。
みんなは、いっしょによく遊んだ。よく働いた。夏には人間が休める木かげを作ったり、秋にはきれいな色の葉になってみんなを楽しませたり……。そんな楽しい夏と秋がすぎ、冬がやって来ると、夏中いっしょに遊んでくれた風が、葉っぱたちにおそいかかった。葉っぱたちはつぎつぎに散っていった。
ダニエルは、「ひっこしするときが来たんだ」という……。
◎とっちゃまんのここに注目!
少し前にベストセラーになり、話題になった本。今も読み続けられているよね。この注目の本、きみなりにとらえ、考えてみてほしいと思う。
ボクの故郷の話をしよう。ボクの故郷は信州の山の中。落葉樹の森に囲まれていた。秋がおしまいになるころ、葉っぱがほんとうにいっぱい落ちる。いろんな種類の葉が落ちて、それが積もるんだ。すごい厚さになるんだよ。
葉っぱの中に手を入れると暖かい。そのうちに雪が降ってきて、その重さで葉っぱはしだいに圧縮されていく。それでもやっぱり暖かい。むしろ暖かさは増していく。ボクはわかった。葉は落ちて根を守り、根を冷たさから守る毛布の役割をする。やがてくさると、栄養となって根に吸収される。そのときも なお、葉っぱの暖かさを求めてもぐりこんできた虫や動物の死がい、排せつ物など、栄養になるものを包みこんで、根や土に恵みをほどこす。
だから、葉が死ぬなんて、とんでもない。葉は役割を変えていくだけ。生き続けていくものなんだ。そういう話。
だから、この本を読み、ボクの思いと同じように、葉っぱのいのちにふれた作品だと知ってとてもうれしかったんだ。
・葉
葉っぱの一枚一枚に目を向け、一枚一枚に人格を求めて、名前をつけ、その一枚一枚を単位として考えたり、思ったりしていけば、こういう話ができ上がるのかもしれない。
また、木そのものを単位として、木が人格を持っていると考えれば、葉っぱはつめとか、髪とか、細胞とか、皮膚とか、かさぶたくんとかいうように、部分として考えることもできる。
主語をどこに置くかで、ものの見方や考え方が変わる。当たり前のことだけれど、ふまえておきたいことだね。
・いのちは永遠に生きる
この言葉、いいな。目に見える形はなくなっても、いのちは永遠に生き続けるんだ。こう考えられないだろうか――ボクらはつねに変化し続け、生き続けているのだ、と。
たとえば、「ヤマネのチッチ」が死ぬとする。それを鳥が食べる。残った分は虫が食べる。さらに残った分はくさって土の中に入り、近くの木の根に吸収される。鳥は別の大きな鳥に食べられる。その食べ残しを別の動物が食べる。ヤマネの形はなくなり、分解されて、別の生き物たちの一部になる。それらもまた、食べたり食べられたりして、別のものに分解され、吸収されていく。
形はずっと変化し続けていく。形あるものが別の形のものを食べ、いのちをつなげていく。いのちあるものすべてを主語にすれば、すべて、ひとかたまりのいのちととらえることもできる。
地球や宇宙でさえ、一つの大きな生き物だとみることができる。そして、 その大きな生き物は、時間とともに姿を変えていく。
いのちとは何か。そう考えることは、ボクら自身のいのちを考えることにもつながる。取り組みがいのあるテーマだね。
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※出典:読書感想文おたすけブック