そんなバカな!と君(きみ)たちは思(おも)うだろう。読書(どくしょ)感想(かんそう)文(ぶん)を書(か)くのに、なぜ花(か)ビンを見(み)なければならないのか?
ところが、これはけっこうじゅうよう、いやとっても大切(たいせつ)なことなんだ。
花(か)ビンについてかく時(とき)、いろいろな角度(かくど)から見(み)てかきなさいって、よく言(い)われるよね。でもいったいどうやって見(み)ていけばいいかって聞(き)いてみると、ただ自由(じゆう)に見(み)ればいいって言(い)われるだけ。でも、意外(いがい)とこれがむずかしい。なかなか"自由(じゆう)"に見(み)てはいけないのが、ほんとうのところだよね。
だからまずは、
① 上(うえ)から見(み)る
② 下(した)から見(み)る
③ 横(よこ)から見(み)る
④ 右(みぎ)ななめから見(み)る
⑤左(ひだり)ななめから見(み)る
というふうにいろいろやってみる。こうやって見(み)ていくとキリがないけど、つまり三六〇度(ど)全部(ぜんぶ)の"角度(かくど)"から見(み)ていくということなんだ。
そして、つぎは見(み)る"きょり"。
たとえばハワイからだと、君(きみ)の家(いえ)の花(か)ビンは見(み)えないよね。見(み)えないんだから仕方(しかた)がない。白紙(はくし)で"かく"しかないだろう。ところが、これも見(み)るってことなんだな。
もっと近(ちか)づいて、ニンジャのように天井(てんじょう)にはりついて見(み)たり、花(か)ビンのま上(うえ)から、もうまつげがくっつくくらいまで近(ちか)づいて見(み)たりしても、まったくちがうように見(み)えるよね。
つまりきょりによって、ものの見方(みかた)は変(か)わってくる、というワケなんだ。
角度(かくど)ときょり。ふつうはこれで終(お)わりってことになるんだけど、ボクはもっともっと自由(じゆう)に花(か)ビンを見(み)ちゃうんだよね。
たとえば、さわってみる、たたいてみる、こわしてみる、切(き)ってみる、きずつけてみる……。
今度(こんど)は目(め)を使(つか)って、光り(ひかり)やかがやきを見(み)る、かげを見(み)る、がらや形(かたち)を見(み)る……。
こんなものではまだ足(た)りない。耳(みみ)を当(あ)てて音(おと)を聞(き)いてみる、においをかいでみる、なめて味(あじ)わってみる、かんでみるってことなんかもできるんだよね、ハイ。これもみーんな花(か)ビンを見(み)るってこと。
アッ、もうひとつ大切(たいせつ)なことを忘(わす)れてた。それは"そうぞう"してみるってことなんだ。
たとえば目(め)をつむって、東京(とうきょう)にあるサンシャイン60よりも大(おお)きくなった花(か)ビンを、そうぞうしてごらん。つぎは反対(はんたい)に、けんびきょうでも見(み)えないくらいの、小(ちい)さな小(ちい)さな花(か)ビンを……。
こんどは流(なが)れているところ、空(そら)をとんでいるところ、そして、さまざまなものに形(かたち)を変(か)えていくところ。春(はる)のカゲロウのようにゆらり、ゆらりと形(かたち)がつぎつぎと変(か)わっているところ、バターのようにとけてしまって、ついにはなくなってしまうところ……。
まだまだあるゾ!そうぞうっていうのは、君(きみ)たちのすきなようにできるもの、思(おも)うがままのむげんの世界(せかい)なんだ。その花(か)ビンににあう花(はな)を考(かんが)えてみたり、ネコやイヌ、サルなんかを生(い)けてみたり、学校(がっこう)の先生(せんせい)たちを花(か)ビンの中(なか)に生(い)けたり……うーん。ビルを生(い)ける、れきし上(じょう)の人物(じんぶつ)を生(い)ける……。ホントにありとあらゆることが、そうぞうできるだろう。こういうことが、花(か)ビンを自由(じゆう)に見(み)てかくということなのでアル。
君(きみ)のその頭(あたま)の中(なか)で、花(か)ビンがかってにすがたや形(かたち)を変(か)えて、生(い)き物(もの)のように動(うご)くとしたら、それはとってもとってもスバラシイことなんだ!
※上記の著作権は宮川俊彦にあります。
※無断での転用・転載を禁じます。
※出展:きみにも読書感想文が書けるよ(1989年)