結局、本というものはそういった言葉を使って書かれているもの。そして作
者の考えや、意見が語られているものだと見てみよう。当然、読んでほしい、形にしたいという考えがあるのだから、そこには願いや、思いや、メッセージがある。
見えなかったものを、言葉を使って文にし、そして形にしていく。
これは今までお話してきたことの上で考えていくと、大変なことだってわかるよね。
なかったものが生まれていく。そして、その生まれたものを受け止めて読んで、そして作った人たちの思いを、文化をドアとして考えていく、思いめぐらせていく。そういうことだと思ってほしい。
読み取っていくことは案外簡単にできてしまうのではないだろうか。もちろん、文だけをなぞってストーリーだけをみていたらわからない。書かれていないところ、つまり見えない文章を読んでいくことが大切になってくる。
読解には四つの段階がある。
① かれた文を読んでいくということ。何が書かれているかを知っていくと いう段階。
② 書かれているものをベースにして、作者の意図や思いをその文の中から、あるいは文のむこうに読み取っていくという段階。
③ をはるかに通り越して自分なりに読んでいくという段階。
つまりは、人にとってのきほん問題をもとにして、文というものはできあがっている。例えば、どう生きるか、どうしたらいいか、自分とは何か、社会や人の実像、そして関係、こころ、・・・といった古今東西の、人として考えなくてはならないテーマ。これらは人にとっての、無関心でいられないことだと言っていい。そういったことについて、作者の考えと自分の考えを対照させたり、対決させたり、考え合っていくという読解段階。
④ 自分の問題意識をもとにしてこう見たらこう読める、こう考えたらこう読めるということをつかんでいく段階。
もちろんボクはそのすべてを君達に求めていこうと思う。
せいぜい学校や塾でやっているのは、①、②の読解段階だ。ここでは見えている文章の中でしか考えができあがっていかない。つまらない。そうしていくと、正解のよう(・・)な(・)もの(・・)ができあがってしまったりもする。
もっともっと自由でいい。もっともっと段階を追って、冒険をしていったらいいんだ。
考える世界にイチャモンつけてはいけないんだ。きみはもっとだいたんで、大きく、そして細心の注意と関心を持ってテーマとつきあっていけばいい。
そこから自分の固有の意見が生まれていく。
感想文が、こんな形、なんていうことはない。作文もこれが正しい形という
ことはない。あらすじを書いて感想をちょっと添える。こんなばかばかしいことをいつまでやっていても勉強になっていかない。
その読んだ本というものは君にとって自分を高め、考えさせてくれるものとしてあって、はじめて読むことができていく。
それを与えられない本はまだまだなのだ。作者もそうだし、読んでいる君たちもそうだ。
本に必ず感動があるということもきっと言えないはずだ。感動しようと思って読んだらそうなる。つき放して冷静に読んだら、ちがった顔を見せてくれる。
そういうものだと知っておいてほしい。
だから、よくあるけれど感想文に「感動しました」だけを語る必要はないんだ。「しませんでした」であってもいい。感動したら感動の根きょを語ってみよう。感動している自分を見つめてみよう。「なぜ」を本にだけむけないで、自分
にもむけてみよう。
「ためになった」ということもある。「考えさせられた」ということもある。「この本におけるこの部分について」とか「この発言について」とか「このシーンについて」ということがあってもいい。全体だけがテーマになっていくわけではない。部分であってけっこう。表紙や、さし絵であってもいい。
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※出典:ザ・読書感想文‘96(高学年向け)