忘れないよリトル・ジョッシュ
マイケル・モーパーゴ・作 牧野鈴子・絵 渋谷弘子・訳 / 文研出版
イギリスが舞台の翻訳物(ほんやくもの)だ。
イギリスの農場の風景が目に見えるようだ。高い山はなくて、なだらかな丘がずっと続いている。広いんだね。
そして、たぶんちょっと肌寒(はだざむ)いはずだ。日本よりも、緯度(いど)が北にある国だしね。広くて寒い。緑の舞台が広がっている。
☆生き物を相手にする仕事とは
日本でもたいへんな社会問題になった口(こう)蹄(てい)疫(えき)をテーマにとり上げている。農家の少女の日記を通して、畜産(ちくさん)農家(のうか)の暮らしぶりが描(えが)かれている。
自然や生き物を相手にする仕事というのは、たいへんな仕事だ。農作物だって自然に大きく左右される。
たとえば鯉(こい)。鯉の養殖(ようしょく)をしている人は、魚の病気に神経質(しんけいしつ)だ。病気が広まると、一夜で全滅(ぜんめつ)することもあるらしい。
津波で海水につかった田んぼだって、すぐには回復はできないらしい。塩分をとりのぞかないとダメなんだそうだ。
この作品では、豚、牛、羊だ。
口蹄疫に感染(かんせん)したら処分するしかない。これは「殺(さつ)処分(しょぶん)」というそうだ
ただの「処分」でも「殺す」だけでもない。
ボクは新聞やテレビなどのメディアがこの言葉を使うことに、食ってかかったことがある。「物を処理するような冷たい言葉を使うんじゃない」と言ったんだ。
聞いてはもらえなかった。でも、あえて冷淡(れいたん)になることによって、必要以上の感情(かんじょう)移入(いにゅう)をすることをさける意味もあったかと、あとで考え直した。
みんなが口蹄疫で殺処分される動物に対して「かわいそうだ」となげいていても仕方がない。処分するしかないのなら、そうするしかない。それを受け止めるしかない。感情だけを引っぱりすぎてはならない。
「殺処分」という言葉ひとつにも、いろんな見方やとらえ方がある。考えてみたらいい。
☆主人公と周囲(しゅうい)の人との関わりを分析(ぶんせき)する
主人公の農家の少女ベッキーは、よく働いている。羊のお産を手伝ったりしている。
家業が農業だと、必然的(ひつぜんてき)に子どもは家の手伝いをするようになる。親も「子どもの仕事は勉強だ」なんて、つまらないことは言わない。
家族みんなで、自分ができることをして助け合う。そうやって生きてきている。そこで、子どもはチームとはどういうことか、自分の役割を果(は)たすとはどういうことか、現実の経験から自然と学ぶことになる。
同じチームといっても、ゲームのチーム力とはちょっとちがう、切実(せつじつ)なんだ。この少女は仕事を手伝っているだけじゃない。まわりの人への心配りや、言葉のかけ方などでも家族を助けている。
そこを見てごらん。ベッキーのこの家でも役割、ベッキーの家族の支え方が見えてくる。
子どもだから、大人に支えられるのがあたりまえだと思ったらおおまちがいだ。ベッキーの果たしている役割、家族の存在感を見い出すことだ。
☆作家の人間観を読み取る
作家は人を描き分ける。どの人をどんなふうに描いているかを分析すれば、作家の人間の理解のしかたや思いが見えてきて、作品は読解できる。
たとえばパパはどうだろう。作家は、パパのことを優しく繊細(せんさい)で、傷ついた人として描いている。
パパは、自分の農場が口蹄疫におそわれたあとにはうつ病になってしまう。そんなパパを描くことで、作家は、そんなにショックでたいへんなことなんだと、語ろうとしているんだ。
この物語はフィクションだけれど、口蹄疫の拡大はイギリスで実際にあったこと。実際に、うつ病になってしまう農家の人だっていただろう。
農家の家畜をぜんぶ殺してしまうというのは、たいへんなことだ。
この本には、病院に入院したパパのさし絵が入っている。その絵も、パパが受けたショックの大きさを描き出している。
病気からの回復には時間がかかる。しかし時間をかけて少しずつ「もう一度立ち上がってやっていこう」そう心を定めようとしている。何年かすれば、またにぎやかな農場にもどすこともできる、とね。
時間がたてば、自然に元にもどるわけではない。そうしようとしなければ、そうはならないということも描いている。
自助(じじょ)努力(どりょく)というんだ。援助(えんじょ)だけじゃ前には進めない。自分から、絶望(ぜつぼう)の淵(ふち)からぬけ出して行くしかない。それを示している。
この物語の前半では、羊がお産のあと数時間で立ち上がる、その姿を描いている。人もそうなんだ、と、自分で立つんだと示そうとしている。
☆名前をつけるということ
ベッキーは、生まれた羊にリトル・ジョッシュと名前をつける。
「名前がある」ということは、「この世に存在しているということを認められたんだよ」という証拠だね。だから君にも名前がある。新種の生物や、新しい星が見つかったら、まず名前がつけられる。
名前というのは「そのものがあるんだよ」という存在の叫(さけ)びなんだな。
そうやって名づけられたリトル・ジョッシュは、ほんの短い時間を、この世で過ごして、口蹄疫のせいで「殺処分」されることになった。
家畜が処分される。それがショックなのは、お金の問題だけじゃない。大切に育ててきた動物に対する特別な思い、親のような思いがあることを、ここから読み取らないとならない。
☆人間社会のなりたちが見えてくる
かわいがっているから、というだけで見逃すわけにはいかない。ひとつの命を生かしたために、そこが口蹄疫の感染源(かんせんげん)になって、さらに被害が拡大するかもしれないからだ。
ここに一貫しているのは「全体のために」「みんなの幸福のために」殺処分するという論理(ろんり)だ。そこには個別の感情も理屈(りくつ)も入る余地(よち)はない。
いくらかわいくても、しょせんは家畜であることも関係している。家畜とは、人に命を提供する生き物。人のために殺されるという前提(ぜんてい)がある。
家畜は、また増やそうと思えば、一気に増やすこともできる。ひょとしたら、そういうことが殺処分を大規模に決定させる要因になっているかもしれない。
しょせん家畜なんだ、ペット以下なんだ、そこにいくら愛情があったとしても……。そこには、人間のほうが上だという前提がある。それも、この物語から確認すべきだ。
☆感情に流されない。普遍的(ふへんてき)に読み取る
実際に、この物語でも、必要以上に少女との付き合いをひっぱらない。読者に、子羊に感情(かんじょう)移入(いにゅう)させようとしていないんだ。そうしているのは、そこに作家の本当の関心がないからさ。
社会派の作家はそんな書き方をする。ひとりに体現(たいげん)される大きな社会問題、という形だね。
人間と家畜、それには長い歴史がある。
家畜は、家畜として人間に飼われることで、存在を許され、生活を保障され、人とともに生きることを求められている。
羊なんて、とことん人間に利用される。毛も、肉も、皮も、乳も、子羊も、フル活用される。そのために、品種(ひんしゅ)改良(かいりょう)だってされる。家畜ってのはそういうことだ。それで生きることを許されている。
家畜の歴史を考えてみよう。そして家畜とは何かを、この作品を通して考えてみよう。
ただ「かわいがっていた動物を殺されてしまう悲劇の物語」というだけでは、読みは浅い。限定的だ。
テーマを「人と家畜」と考えると、普遍的に広げていくことができる。
ところで口蹄疫におそわれた宮崎は、今はどうなのだろう。今の宮崎を調べてみるといいよ。
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※出典:読書感想文書き方ドリル2001(2011年)