がっこうかっぱのイケノオイ

がっこうかっぱのイケノオイ

山本悦子・作 市居みか・絵 / 童心社

 

こういう作品はいいね。

カッパというのは、てっきりカエルのことだと思ったら、本当にカッパが登場してきて、驚(おどろ)かされる。

でも、そのカッパはボクらの想像しているカッパとはちがって、ずいぶん小さくて弱々しい。それに、音楽に合わせておどったりしている。

ボクが思っていたカッパは背がニメートルはあって、全身が緑色で、とてもかしこくて、たくましい。そんな気がしていたんだ。

 

☆「いるわけない」ではなくて「いるとしたら」

カッパは空想の生き物だとされている。でも、ボクは本当にいると思っている。

日本中にカッパの伝説が残っている。オニやテングと同じようにね。本当にいないものなら、なんで名前がついているんだろう。実際にカッパを見たという目撃談(もくげきだん)もたくさん残っているようだ。

「カッパは空想の生き物。本当にいるわけないんだ」そうやって片づけてしまうのは、よくない。それに、ぜんぜんおもしろくない。

なんでも「いるとしたら」と考えてみたらどうかな。そうすれば、世界はもっと楽しくワクワクするものになるはずだ。

 

「サンタは本当にいる?」と質問したことがある。教室のみんなは「いない」と答えた。本当はサンタじゃなくて、パパやママだと言うんだ。

でもボクは「サンタは本当にいる」と思う。「サンタ」という言葉があるということは、本当にいるということさ。」クリスマスイブの夜、世界の人たちの心の中にはいるんだ。

クリスマスの夜、世界中の人が「サンタは来るかな?」とか「きょうはサンタになろう」とか思ったら、その夜、世界はサンタに制服されるんだ。

クリスマスの夜、サンタはとてつもなく大きな存在になっている。それなのに、「いる」とか「いない」といった議論はささやかすぎる。

見えなくても、証拠がなくても、いるものはいる。そういうことにしておいていい。そのほうが楽しい。

もし想像だとしても、想像の世界で「いる」のなら、それはいるということだ。仙人だって、竜だってきっといるんだ。

ボクはこのあいだ、竜と仙人がゲラゲラ笑っている夢を見た。ボクの中では竜も仙人も本当にいる。

笑いたければ笑えばいい。そんなことで、人に合わせる必要をぜんぜん漢字ない。

 

☆想像の世界はすごいんだ

カッパがリコーダーに合わせておどっている。これは愉快(ゆかい)だね。たしかに、こんなのが一匹ほしい、そんな気がする。

ここできみにはピンとくるはずだ、この作品、本当はいるはずがないカッパを登場させた空想(くうそう)物語(ものがたり)だろうか。

ちがうね。カッパはいる。ボクらの中にいる。そういうことでいいじゃないか。

ずっとずっとむかしからカッパはいた。そして、ボクたち人間といっしょに楽しく遊んだりおどったりしていた。

「いるもいないもない。それでいいじゃないか」――そんな作者のつぶやきが聞こえてくるようだ。

 

この作品の後半は気をつけて読むといい。

「カッパとは○○のことなんだ」そうやって、かんたんにきめつけられたくない、そんな作者の思いが伝わってくる感じがあるよ。

「カッパとは、なんだろう?」それを追及(ついきゅう)するのもいいけれど、それよりも「カッパはきっといる」という前提(ぜんてい)で進めたほうがおもしろくなる。

なんでも科学的に、ということにこだわることはない。非科学的(ひかがくてき)なことも実は科学的なのだ。

だってね、化学の最先端(さいせんたん)はやはり「想像」の世界だもの。

 

☆動物を飼いたくなるのは「なぜ?」

この物語の最初は、興味(きょうみ)をそそっておいてガクッと落とす。「なんだよ、カッパじゃなくて、カエルかよ」とね。しかし、その次に本当にカッパだったことがわかる。これは圧巻(あっかん)だ。ドキドキする。

見つけたカッパを「家で飼(か)う」というのが現代的だな。ペット文化と言ったらいいだろうか。

なぜ「飼いたい」と思うのだろう。どうして「自分のものにしたい」と思うのだろう。

ここは自分の経験もふくめて、書いてみるといい。

もちろんカッパを飼った経験でなくていい。金魚でも、ハムスターでも、これまでに飼った動物のこと、飼ったことがなくても「飼いたい」と思った動物のことでもいい。

「自分で飼う」……考えてみると、不思議な言葉だ。「飼う」というのは、その生き物の生命そのものを左右するということだ。すべての責任がかぶさってくるということなんだ。

とっちゃまんの話をしよう。

ボクは、犬を飼っていたことがある。その犬はボクが病気でたおれたときに、ボクの身代わりになったかのように死んでしまった。

それからボクは動物を飼っていない。

ペットとの関係は、最後はこうなったりする。直接的でごまかすことができない。だから、つらいこともあるさ。

それなのに、動物を飼う。これはどういうことなんだろう。いったいどんな神経(しんけい)だろう。

かわいいから飼いたい?

ずっと、そばにいたいから?

「ちょっと待てよ」と思ってしまう。

ペットをかんたんに飼う。そしてペットにあきたら、かんたんに捨(す)ててしまう。そんなの言語道断(ごんごどうだん)だ

外国から日本につれてきて、それをだれかが捨ててしまったので、日本で大繁殖(だいはんしょく)してしまった生き物もいる。

いい加減(かげん)なことはしたくない。きみにとってのペット。ペットにとってのきみ。その重さを比(くら)べてみるといい。

 

☆ひとつじゃなくて、あらゆる場面を想像する

りくくんはどうしてカッパを飼おうとしたか?

カッパは、そのまま池にいたら、きっと元気だった。でも、りくくんが家につれていったばかりにカッパは弱ってしまった。

弱ったカッパを見て、りくくんはものすごく心配している。飼おうとした責任があるからだね。

 

だれでも、失敗をするのは、さけられないことだ。きみもいつか、とんでもない失敗をすることがあるかもしれない。

なんでも、うまくできると思ってはいけないんだ。ゆるされる範囲の失敗ならいいけれど、ゆるされないような失敗というのもある。

だから「想像」が大事なんだ。

「こうしたら、どうなるかな」とあらゆる場面を想像してみる。それで「だいじょうぶ、やれる」となったらやったらいい。そうでなかったら、「やれり」と思えるまで待ったらいい。

きっとカッパは逃げていかない。ずっとそこにい続けるはずだ。

 

☆考え方ひとつで心は変わる

 

この池は不思議だ。

りくくんは、学校でみんなの前だと緊張(きんちょう)してしまう。それで言いたいことが言えなくなってしまう。

この池の中では、りくくんたちのそんなとまどいが、うそのように消えていくね。

この池は現実のものさ。そこにあると思えばあるんだ。思い方ひとつ、考え方ひとつで、現実は決まるんだ。

思い方ひとつで自分で自分を苦しめてしまうこともある。そんなことがこの池の中のシーンで見えてこないかな。

「ずーっとずーっとまえからさ。学校ができるまえから、このいけはあったんだ」この分は大切だよ。

 

☆登場人物のセリフひとつにもメッセージがある

 

「わらってるこえはいいな。たのしい気分になってくる」という文がある。

これは今年を象徴(しょうちょう)しているね。明るく笑い合うことが幸せなのだと、どこかでささやく声が聞こえる気がする。

今年は、悲しいことがあったからね。しかし、そんな中でも笑いは必要だ。笑うことを遠慮(えんりょ)すべきじゃない。

笑ってすごせたら、それでいいわけではない。でも、笑っていられたら、それに越したことはない。

ここで語られている「笑い」は、ゲラゲラ、ドタバタの笑いではないだろう。もっと地に足の着いた、安定してどっかりしていて、しかし笑わずにいられない、そんな笑いだろうね。

そんなとき、きっとカッパも笑って、おどっている。そういう世界を持っているのはすてきなことのように思う。

こうやって、ひとつの文、ひとつのセリフに注目するのも、本のひとつの読み方だ。分析的(ぶんせきてき)、読解的(どっかいてき)な読み方につなげていくことができる。

 

☆スピーチは四つの文で

この作品のはじめにスピーチのことが書いてある。「。」までの文を四つ語るといいのだそうだ。

この四つというのはボクも賛成(さんせい)だ。ボクも前から、スピーチは四つの文で書くといいと教えている。「起承転結(きしょうてんけつ)」も四つだしね。

僕が教えるのは「な・た・も・だ」の四つの文だ。

「な」は「なぜなら」。

「た」は「たとえば」。

「も」は「もしも」。

「だ」はだから」。

この四つで、スピーチはわかりやすく伝えられる。

ダラダラと話すより、ひとつひとつの文の目的をはっきりさせて、短く簡潔(かんけつ)に伝えたらいいんだ。

「言いたいことを言う」のでなく「考えて、言うべきことを言う」そういう取り組みが増えてきたのはうれしい。

毎朝、二人がスピーチをするというのはいい習慣(しゅうかん)だ。きみのクラスでも、ぜひやったらいい。知らず知らずのうちに、文章の力もついていく。

自分で工夫して、毎日書いてみたり、話してみるようにしたらどうかな。スピーチも感想文も、教えられたとおりにやるだけでは、なかなか進化できないね。

 

☆ふつうでないところに注目する

「さびしくないさ。いろんな音がきこえてくるし」

カッパのそんなセリフがある。この世界は音に満ちているということだね。ここには、注目してみていい。

カッパはリコーダーの音に合わせて、おどったりする。

どこかから聞こえてくる音に合わせて動かしてみたら?

音で前進をつつんでみたら?

どこかから聞こえてくる音や、リズムに合わせればいいんだ。それが自然な流れじゃないか……。

このクライマックスの場面では、カッパはそう語っているように、ボクには思える。きみはどう考えるだろうか。

 

カッパといっしょに入った池の中は、不思議な世界だ。ただの想像の世界ではない。カッパはみんなを引き込んで、その世界で遊んでいる。

こういう「ふつうでないところ」に、作家は「目的」や「願い」のヒントを残している。だから、現実にはありえないようなところに着目(ちゃくもく)するといいんだ。そこに確実に大きなメッセージがある。

 

カッパの名前はイケノオイ。いい名前だ。

「池のにおい」の言いまちがいだけど、「池の老い」の意味でもあるんじゃないだろうか。カッパには歴史がある。長い歴史の中にいるカッパ。

カッパは、今も君のとなりにいると語ろうとしている。そして、人が見失ったものをちゃんと見ているよ、と伝えている。

空想の世界は大事にすべきだね。

「カッパなんていない」じゃなくて「カッパがいてもいいじゃん」と考えるんだ。それが世界に彩(いろどり)を与(あた)えてくれる。

 

最後にもうひとつ。カッパにアメをあげる場面にも注目だ。

カッパにも甘いものが必要なんだ。アメをしゃぶらせてあげたら元気になった。これもなかなか象徴的だ。

人にとってのアメはなんだろう。それがあると元気になるものは?

想像が人にとってのアメだったりしない?

  

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※出典:読書感想文書き方ドリル2001(2011年)