ボールのまじゅつしウィリー

ほんやくの本。この作品はとってもわかりやすい。考えやすい本だよ。

この本のカバーについた、せんでんのことばの中に、「日本チームW杯(ワールドカップ)初出場おめでとう」と書かれている。そうだったなー。すごいもり上がりだった  なー。去年だよね。

あのときにこの本の主人公ウィリーがいてくれたらよかった。きっと何試合かは勝ったんじゃないかな。そんなことを思ってしまった。

練習とか、努力とか、さいのうとかというだけじゃない、人にとってたいせつなものは、なにかを考えさせてくれる話だ。

とくちょうがある。登場人物(サルだけど)が少ない。ほとんどウィリーだけ。あとはふしぎな、まぼろしのサッカー少年。

家族とか友だちというた人たちも出てこない。チームのメンバー(なかま)はチョコッと顔を出しているくらい。

そのぶん考えるマトはしぼりやすいよね。

まず読んでみよう。サラッとしているからすぐ読んでしまえる。

 

【サッカーシューズ】

まずこれだ。

ウィリーはサッカー少年だけど、サッカーシューズを持っていない。買ってもらえないとか、家が貧しい(びんぼう)とか、いろいろ思いうかべることはできるけど、ともかく持っていない。

ウィリーはどういう子か考えてごらん。ウィリーの性格からして、きっといいサッカーシューズをはかないと、いいプレーはできない、と思うだろうな。

だって、けっこうきちょうめんで、型にはまった生活をするくらいだから。

ちょっと思い出したことがある。ボクの子どものころの話。まだそんなに サッカーは人気のあるスポーツじゃなかった。そんなころ、学校で放課後よくサッカーをしてあそんでいた。

ひとりなんでも親に買ってもらえる友だちがいた。その友だちがある日  サッカーシューズにはきかえた。ボクらははじめて見たからきょうみしんしん。その子はじまんげだった。

「あそびにそこまでやるの?」みたいな気持ちがボクには少しあった。しっともあった。でもその子はもともとヘタくそなやつだった。だから、せっかくのシューズもあまり役に立たないばかりか、ぎゃくにくつにはか(・・)れて(・・)しまっていた。つまり、なんのためのシューズかわからないようなあつかいかたをしていた。たいせつにはいていて、よごれないようにしていたんだ。けっきょく、見せびらかしただけで、つぎの日からはいて来なかった。

きっとあのままゲタ箱にしまわれたんだろうな。

ウィリーの反対だ。

ボクらはかえっていつもより本気でサッカーをした。その子とその子のシューズに対して、なにか意地になっていたような気持ちもあった。

おっとっと。ボクが感想文を書いてしまっていた。ごめんごめん。でも、この気持ちわかるよね。ウィリーはどうだったんだろう。

サッカーって、ほんの少しのひつような道具があればそれだけでもできる。形にこだわるひつようはないんだよね。

 

【実力】

なんたってこれだ。試合でのかつやくで、ウィリーは実力がある、ということになる。実力は持っているものだし、つけていくものだ。

この本の中で「実力についての作者の考え」をさがしてみたらどうだろうか。ウィリーの実力はどうしてついたんだろうね。むねをはずませて練習に行くようになったウィリー。「ウィリーは、みるみるうまくなった。」とあったよね。そして、よけいなものをとりはらって、こだわりをなくして、そこで身についているもの、持っている力を出した。そう。みんなそうすればいいのに……。

でも、みんなが持っているものをほしくなる。ときにはそれがないから自分はダメなんだというふうに思ったりもする。

そんな気持ちもわかるよね。

作文や感想文もおなじだよ。こう書かないといけないなんて思ってしまうと実力が出ていかない。

身についているものや身につけた力は、かならず表に出てくるものさ。

 

【なぜパスをしてもらえないか】

はじめのうちはパスをしてもらえなかったよね。絵を見ればウィリー以外のメンバーはみんなゴリラっぽい。ウィリーはチンパン君っぽい。そんななかまいしきもあるのかなー、と絵からは感じられる。

いやいや、きっとこれはウィリーの目に映ったなかまのすがただ、と見ることもできる。つまり、自分とくらべたら、大きく、たくましく、強そうに見えているとかさ。

きっとウィリーはサッカーがうまくないからじゃないかな。力がないとみんな思っているからパスできないんだと思う。

それをシューズのせいにしちゃいけないよね。

 

【ふしぎな少年】

これはまぼろしかもしれない。「ウィリーつかれてんのかな」、だって。

この少年のことを考えてみることはおもしろい。いっしょに練習して、そしてシューズをもらう。この少年の正体はなにか。

そんなふうに考えてみるといいよ。

きみならどう考えるだろうか。

いつのまにか少年は消えている。それはウィリーが「自信」を持ったとき。ということは、ウィリーの目に映ったものだ、と考えることもできる。なにが?そこを考えてみようよ。

そしてプレゼントされたものはなんだったか。くつジャン。そう言っているうちはまだ考えが浅いぞ。

 

【ゴーシュ】

宮沢賢治の『セロひきのゴーシュ』っていう話、知ってるかな。

にているんだよね。毎晩、動物が来てセロをひいてくれと言う。そう言われてひいているうちにとてもうまくひける人になってしまうという話。

この話とくらべて考えてみるというのはどうだろうか。ゴーシュは動物からなにかヒントをもらっているんだよ。

ウィリーもそうじゃないかな。

 

【ほどうのつぎ目】

とっても気にかかるところ。生活もきちんと順番どおりというところが、なにかわけがありそうにこまかく書かれている。

これは「こだわり」だね。そして自分をしばっている、つまり、自分で自分を自由にできないようにしている、ということだよね。

つぎ目をふまないように、つぎ目でできた四角い囲みの中を歩く。わくの中にいつづけるという意味さ。

そんな人いっぱいいるじゃないか。電車にのるときはこの車両にいつものるとか、かばんの中はこうやっていつも整理しているとか、それをしないと落ちつかない。そうするものだと思いこんで、そこからはみ出すことをしたくない。言ってみりゃ、マニアックな人。

こうしたことに神経をつかう。それじゃあ、のびのびした大きな気持ち、おおらかな気持ちになっていけない。

じっさいにウィリーはこだわりをなくしてだいかつやくをする。

「もう気にしないよそんなこと」という気持ちになったときに、きっと一歩前進している。今までの考えかたをすてて、新しい考えかたになって、そう「脱皮」して大きくなっている。

「えんぎをかつぐ」ということばもこれとワンセット(いっしょ)。いつもとおなじことをしていたらなにも変わらない。

「えんぎをかつぐ」ことって心ぼそいときや、ちゃんとやろうと思っているときに、ウィリーみたいにさいこうに気をつかう。これは「自信」があるかどうかということとかんけいがあるんだよ。

ウルトラマンがえんぎをかついで、切り火をしてもらって怪獣とたたかうということはきっとない。あったらウケるけど。

 

【シューズのせいなの?】

もっともたいせつなところだ。この作品を読みとるとき、目をつける中心だよ。ウィリーがうまくなったのはシューズのせいだろうか。ここにもどる。

「そうだよ」と言われるとボクはちょっとこまる。あとがつづかない。

「まほうのくつをはいたからさ」と言われるともっとこまる。

「だったら試合でくつがなくてもやれたのはなぜだよ。」と切り返そうかな。フフフ。

ボクらはみんな、ほんとうは「まほうのくつ」を持っている。くつに「まほう」をかけたのは自分自身だ。自分の気持ち一つで、力がわいたり、うまくいってのぞみがかなったりする。

シンデレラの「まほう」みたいにね、のぞんでいたことが手に入ったり、  満足して気をゆるすと、「まほう」はとける。いつかはとける。しかし実力はついていた……。

このへんはきみの意見がきちんと生まれていくところ。感想文を書くときの中心になるよ。

 

【チャンピオン】

ボクシングのチャンピオンが試合前に「ボクはすごい、ボクは強い、ボクはむてき」と、自分に言い聞かせてからリングに上がるという話を聞いたことがある。ボクさあ、ボクサーなの。アッこれかんけいないか。

ボクの友人のピアニストは「わたしは天才、わたしはすてき、わたしはきれい」と何回もつぶやいて、ステージに上がるという話も聞いた。

これって「じこあんじ(自己暗示)」って言うんだよ。自分で、あることを  思いつめることで、自分に信じこませることなんだ。

ちょっとレベルはちがうけど、ボクはサバというさかなを食べるとじんましんが出た。そこで、食べてからコップ一ぱいの水をのむとだいじょうぶだと、だれかに言われたのをほんとうのことだと思って、ためしたらほんとうに出なくなった。

こんなものなんだろうな。

ボクってすごい、と思えたらなんでもできそうになる。そう思ってやっているとほんとうにすごくなっていくこともある。

ましてウィリーは練習したもの。しかもじょうずな子といっしょにね。

できる人といっしょにいれば、できるようになる。友だちはえらぼうよね。

 

【まほう】

ほんとうにあるんだろうか。ビビデバビデブーをほんとうに口にしている 子に会ったことがある。

『アラジン』の「まほうつかいジーニー」はほんとうにいるだろうか。いたらいいね。なんにもねがわないけれど。「打ち出の小づち」もいらないや。

さいごはきっとのぞまなくなるものね。

『まじゅつし』というタイトルだ。「まほう」と「まじゅつ」はきっとちがうんだろうけど、ボクはひとまとめにして考えていこうとしている。

きみに聞きたい。「まほう」はあるだろうか。

みんなができないことをやれば、「まほう」と言われる。平安時代にCDや  ライターを持って行けば、きっと「まほう」と言われる。自分たちのふつうの感覚ではわからないことをかたづけるには、「まほう」っていうのはいいことばだ。べんりだよね。

一つには、人の目には「まほう」のように映るということだろうな。海外(外国)からのテレビのちゅうけいなんて「まほう」みたいだよね。飛行機がとぶのもそう。ケイタイ電話なんてさらに「まほう」っぽい。

でもきっと「まほう」はボクらの頭の中にほんとうにあるんだよ。おもてに出てこないようにとじこめられているだけでね。

思い切ってなんでも自由に考えていこうよ。思い切ってやってみよう。とじられたとびらがひらいていくはずだから。

ウィリーは「まじゅつし」かい?

 

ね、楽しい話だよね。こんなシューズがあったらいいなと思う。さいごの  ほうの試合の場面はじっきょうちゅうけいふうだ。もり上がるねぇ。熱気とこうふんが感じられる。

いい本だよ。そして「わかるなー」という感じがしてしまう。

よく考えてみればそんなことはないんだけれど、にたようなことがあったと思わせてくれる。この作者は「まじゅつし」かもしれないな。なーんてね。

な、このくらい切り口を出せばいいよね。もう書けるよね。いやいや考えられるよね。あとはきみがさがしていく番だよ。きみも「まじゅつし」だもの。

(とっちゃまんたら、まだつかってる)

 

 

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※出典:これできみも読書感想文の名人だ(1999年)

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ボールのまじゅつしウィリー

アンソニー・ブラウン・作 久山太市・訳 / 評論社