教室-6年1組がこわれた日

あるんだよね、こういうこと。心の行きちがいというのではない。明らかないさかい(・・・・)。この本では、「6年1組の問題」は一応の解決を見ているけれど、実際はそうそう簡単にはいかない。

そのことは、きみが一番よく知っているんじゃないかな。

心の問題は、こうしようと決めて、カギをかけても、いつかははずれてくずれる。くさいものにフタをするように、重しをのせて、もう見ない、そのままにしておこうと、つけ物(・・・)状態(・・)にしていれば、もっとくさる(・・・)、くさくなる。気がついていることや本当の気持ちをだれかに語ってしまえば、よけいにもめごとの種が成長する。

むずかしいなー。めんどうだなー。

ほどほどにしよっと。

そんなことを言う子たちが多い。そこにいくと、この作品に登場している子たちはみんないい子たちだ。そして素直だ。

こうだったらいい。なんでこの子たちみたいになれないのか。

ボクは読んだあと、ずっと考えこんでしまった。

 

【差】

人にはそれぞれ得意な分野がある。あるいは特別な力がある。みんなが同じということはないんだ。

ここでも「美(み)月(づき)」と「はるひ」はちがう。なんでもどんどんやってしまう、やれてしまう、はるひ。一歩後ろを行って、しりごみをすることの多い美月。当然差は出る。

この差は学校でもはっきりと表れてくる。

いろいろな人が集まっているけれど、目立つ子もいれば、目立たない子もいる。キラキラした花を感じさせる子もいれば、静かにぽつんとつぼみのままでいる子もいる。

みんな同じではない。

でもみんな、教室という同じ箱の中で、同じ授業を受け、同じようなことをしながら、日々をすごしていく。

きみも感じている。

自分はその教室という社会の中でスターなのか。わき役なのか。その他大勢なのか。目立つのか、そうでないのか。たくさんの人でできている社会の中では、それがはっきりしていく。

それが人問の社会。「同じ人問なのに……」という悲しさやつらさを、どれだけの人が今まで感じとっていっただろう。

このストーリーでは根底にそのことが流れていて、大きなテーマになっている。

目立つ子・注目される子、「いい子」と言われる子も、苦しみ、なやむ。

目立たない子・注目されない子、特別なことのない子・ふつうの子は、時には「しっと」したり、ひがんだりすることがある。そして、「いい子」のことがにくらしいと思って、意地悪な気持ちになり、「いけないこと」をすることがある。その行動や思いの奥にあるものはなんなのか。さぁ、そこだよ。

そこにきみのするどいメスを入れてほしいな。

 

【ひいき】

これもよくある。日常茶飯事だ。きみは、この『教室』で起きたようなことを、体験したり、見たりしているかもしれない。きみが今まで体験したことなどをどんどん書いていっていい。自分の体験を織りこんでいくことで感想文はでき上がる。このストーリーは、そういう感想文を書くのにふさわしい。

「6年1組」の、この先生はおばさん先生。話し方もおこり方もあらっぽい。よくいるね、こういうタイプ。

読んでいて思うことの一つ。

この先生が、教室の多くの子どもたちの心の中を、もう少し考えていくことができたなら、もっとちがう展開になったように思う。

作者は、それはそれとして深くはふれないで、子どもたち同士の率直な意見交かんで、問題をこくふくさせようとしている。けれど、実は、原因の大きな一つとしてこの先生の問題が確かにある。

さて、どこが問題か。どうしたらいいのか。考えるべきテーマだよ。

この先生は自分の非(よくない点)を認めただろうか。あるいは非はないのだろうか。

ここは考えていい。

一つの考えとしては、「先生がこうだったらボクらはちがった。だから先生が悪い」、ということで何か解決になるの?という現実的なメッセージも読み取ることはできる。

さて、考えどころだね。

 

【こわれる】

何がこわれたんだろう。今や「学級ほうかい」が言われている時代。みんなが言いたいこと、したいことをして、自分勝手が横行している。先生も子どもたちをまとめられないと言っている。

教室はいったいどうあることがいいんだろう。みんな仲よく、心が結びついて、思いやりがあって、おたがいの個性を認め合って、楽しくすごす、……。それってさ、理想?

きみの意見がここでほしい。

どういう教室だったらいいのかな。

いじめも不登校もなんの問題もなく、温室みたいなところで何を学ぶんだろう。学べることはどんなことだろう。

この本の一つのテーマとして、きみが思う「あるべき教室と実際のようす」については、感想文の材料にして、きみ自身の考えを語っていい。そこからこの本に書かれているできごとのいきさつや、登場人物一人一人の心とそのようすが、はっきりしてくるように思う。

 

【もっと向いて】

結局は自分だって、先生にふり向いてもらいたい。みんなに注目されたい、という意識があるんじゃないだろうか。

これは美月のママにも言える。「なんかはるひちゃんの家庭訪問みたい」。ママも心の中でおもしろく思っていないんだろうな。

そんな、人間としての当たり前な気持ちが、少しずつ積み上げられて、だんだん形となり、行動になっていってしまう。

人はどうして人に見てもらいたいのかな。

認められて、見つめられて、確認されて、はじめて自分が自分だって思うから?

とう明人間は見てもらえないからダメなんだ。どんな人だかわからないから、おそう式もしてもらえない。

美月もきょんちゃんたちも、認められたい。見てほしいんだ。その思いがこうした「いじめ行動」の奥底には、重なりあって、大きく広がっているんじゃないかな。

きみの意見がほしいところだね。

 

【仲間に入れて】

学校での楽しみって、だいたいは友だちだよね。授業はまぁ、決まり切ったことという感じ。友だちがいない子にとって学校はつらい。

一人ぼっちはつらい。ましてやみんなにきらわれたり、のけものにされたりというようなことは悲劇だよ。そのために自殺していった子だっていっぱいいるもの。

「仲間に入れて」っていうこのことば。ぐっとくるね。言う人はけっこうしんけんだったりする。しかし、「どうする?」と言い合って、仲間に入れるかどうか判断していこうとする人たちは、いつの間にか「力」を持ってしまっているように、かんちがいして、「さっかく」する。

入(い)れりゃいい。みんなでどんどん仲間になって、つき合っていけばいい。しかし、そう思っても、なぜか足ぶみをしてしまう人もいる。好みのタイプじゃないとか、ムードが合わないと言う人もいる。

なぜかなぁ。

人っておもしろい。そして悲しいものかもしれないな。

合う人、合わない人。好き、きらい。これがあるんだ。これがあって社会を作っていく。これがあっても、社会が成り立っている。

いやな人からこそ学べることがある。いやだった人がいやじゃなくなって、自分が大きくなっていくこともある。

いやな人とこそつき合っていく、そういうことをしなくなったね。だから成長もなくなる。

ここではこういった、人の、単純だけどむずかしい問題をあつかっている。きみはどう考えるだろうか。きみはどういう「基準」をもって人を見ているのかな。

考えていくと、この話とつながってくるよ。

 

【強い】

人の「強さ」とは何か。このことはこの話の中でひしひしと考えさせられる。

「はるひは強いもの……。」

このセリフ。そして本当はどうだったか。この話の中で「はるひ」は本当に強かっただろうか。美月はどうだったろうか。

きょんちゃんたちは、まぁやりたい放題の軽さがあるから、これは強いとかいうレベルじゃないよね。でもきょんちゃんタイプは、世の中であっとう的に多いタイプ。

そして、クラスのほかの多くの子たち。みんなでおもしろがって「はるひ」をからかって、いじめて。しかし、だれが悪かったのか、という話になると、とたんにコロッといいやつを演じ、無関係だといったふるまいをする。こういう連中もあっとう的に世の中で多いタイプ。

このことは、強い・弱いという話のレベルじゃないだろうな。何かな。ずるさかな。お調子者かな。本当はきっとどうでもいいんだろうな。おもしろいネタを探して、盛り上がりたいだけなんだろうな。

胸がしめつけられるような学級会。ここで美月が立ち上がって、自分の思いのすべてを正直に話していた。この行動はどうだろうか。

言えるということ。これは「勇気」だよ。

この時に、きっと美月は自分の中のわだかまりのハードルを乗りこえたんだね。

そして、「強さ」が表れたんだろう。

強い人なんかいない。「強さ」とは、きっと、乗りこえる時のカを言うんじゃないか、と思ってしまった。

 

【正しい】

学級会でのはるひの発言には、考えさせられることばがある。

「ほんとうなら、よいことのはずじゃない。なのに、なんだかわるいことをしたみたいだった」。

これは深いなぁ。

正しければ正しいほど悪者になっていく。こんなことを感じるくらい、今の時代、どこにでも言えることかもしれない。

かっこいい。正しい。だからムカツク。おもしろくない。

そういえば最近は劇で悪者役をしたいという人が増えているという。

なぜ?悪いことができるから。

ここで考えたいのは、正しいとされることは、本当に正しいことなのかということ。

みんなが知っている「正しさ」。それとはちがう、別の面から見た時の「正しさ」。

こういうことをボクらはいつもしんけんに考えていくことが必要なのではないだろうか。

ひょっとしたら多くの人たちは、ほめられる「正しさ」や、いい子と言われる「正しさ」のお手本や基準にとらわれてしまっている、ということは言えないだろうか。

「正しさ」とは何か、ということは、いつでもしっかりと考えて、見直さなくてはならないもののように思う。

 

【加古君】

たしかにカッコイイ。こういう人がいるクラスは幸せだ。いなかったら混乱していたな。どうだろうか。

とすれば、この加古(かこ)君の発言をきみがどう思ったか、ということは大きなテーマになっていく。

いろんな見方がある。

自分の今の見方で一か所を見て、そして判断しているから、気持ちや考えができ上がる。別の視点(目のつけどころ)や基準を持てば変わる。

加古君は、先生の目ばかり気にしているのはきゅうくつじゃないか、「先生、先生」ってなんか子どもっぽい、とクラスのみんなとちがう見方をしている。

「ほんとうのこと」を「自分がわかっていればいい」とも言っている。

そうだね。そうかもしれない。

これで何かケリがついた感じがする。

でもここで、そうかな、これでいいのかな、と思ったらどうだろうか。考えてごらん。

「加古君はこう言った。そのとおりだと思う。でも、やはり人にわかってもらわないと……」

そんな書き出しがあったらおもしろいよ。ちょっとちがった見方の感想文になるね。

 

これハッピーエンドかな。そう言ってかたづけるには、ちょっと重いテーマのように思う。

きみの切り口のするどいさえ(・・)がほしいところだね。

とっちゃまんも子どものころにいじめられたり、孤立したことがある。そんな体験をふと重ねて読んでしまった。

自分ならではの読み方、考えが語られると一気にレベルが上がる作品。

さあ、期待してるぞぉ!

ファイト!

 

 

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※出典:これできみも読書感想文の名人だ(2000年)

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教室-6年1組がこわれた日

斉藤栄美・作 武田美穂・絵 / ポプラ社