ヤマトシジミの食卓

ヤマトシジミの食卓

吉田道子・作 大野八生・絵 / くもん出版

 

この本には、ちょっとしたエピソードがあるんだ。

とっちゃまんのオフィスのスタッフたちが、ワイワイ話(はな)していた。なんだと思ったら、その理由がこの本のタイトルなんだ。

てっきりシジミのみそ汁のお話(はなし)だと思ったんだそうだ。「え、ヤマトシジミって蝶(ちょう)なの?」って驚(おどろ)いている。

意外と、先生でも知らない人は多いはずだ。

実は白状(はくじょう)すると、ボクもそうだったんだ。

ヤマトシジミは小さい蝶。それがわかって、急に目の前が開けた気がした。それこそ広い野原が広がったように思えたんだ。

 

☆「設定(せってい)」に注目しよう

三年生のかんこは、野原でひとりのおじいさんを拾って家につれてきた。

このじいさんが風(ふう)助(すけ)さん。いい味を出している。

まるで犬を拾ってペットにするように、人を、しかもじいさんをつれてきたんだ。これがおもしろいね。

ふつうならありえない。でも、小説はそれでいいんだ。

小説を読むときには、「設定」に注目するといい。なんで、こんな場面にしたのか。そこに作者の「目的」や「願い」が見えてくるからね。

主人公のかんこが、じいさんを拾ってくる。これが、この物語の設定だ。気楽でのんきな設定がいい。だれでも家族や家があって当然、そんな常識的(じょうしきてき)な考え方にとらわれていない。

こちらも考えがかき回される。そして「ああ、そんなものかも」「人って本来はそんなものかもしれない」なんて思ったりする。

こうやって、自分の考えがゆさぶられるのが、本を読むおもしろさだ。

これまで、あたりまえだと思っていることを、問い直してくれる、こういう作品は貴重(きちょう)だよ。

「うんうん、わかる」「私もおんなじ」……そんな共感(きょうかん)だけの作品はおもしろくない。そんなのすぐにあきてしまう。

 

☆かんこと家族が風助さんを受け入れたのは「なぜ?」

なぜ、風助さんは拾われたんだろう。これは考えどころだ。分別(ぶんべつ)ある大人が子どもに拾われている。「何やってんの」と思ってしまう。

しかし、かんこが拾った理由がいい。犬を拾ってきた兄ちゃんに対抗(たいこう)しているのがいい。

風助さんは、気楽で飄々(ひょうひょう)としている。それに、なんとなく優雅(ゆうが)だ。人の生き方の原型(げんけい)を示しているように見える。無心(むしん)に待って生命(せいめい)を謳歌(おうか)している蝶の優雅さにも似(に)ている

 

風助さんは、かんこの家に上がり込んでしまう。

家族の反応がまたいい。金切声(かなきりごえ)をあげてさわぐのでなく、なんとなく自然に受け入れている。ここは自分や自分の家族、現代の一般(いっぱん)家庭とを比較(ひかく)してみるといい。

一般的に考えたら、ありえない話だ。たぶん警察(けいさつ)沙汰(ざた)になる。

今どき、そんな見知らぬ人を信用する雰囲気(ふんいき)はない。自分の家を金網(かなあみ)で囲(かこ)って、必死で守ろうとする、そんな家庭が多い。

知らない人は信用しない、それが現代的だと、みんな思っている。

 

☆登場人物、ひとりひとりに注目する

どうしてこの一家は風助さんを受け入れたのだろう。

かんこの理由はわかるね。

その延長(えんちょう)で兄ちゃんが受け入れたのもわかる。

とうさんはどうだろう。とうさんは、自分の亡くなった父親と風助さんとを重ねているようだ。

心の中で痛みがあるんだね。「あのときお父さんに、こうすればよかった」そんな後悔(こうかい)があるんだ。その心に着目(ちゃくもく)してみよう。

むかしの後悔を、目の前にあらわれた別の人で、埋(う)め合わせができるのだろうか。それは、ただの代用品にすぎないのでは?

いやいや、そうでない。血のつながりなどなくても、ただそこにいて、一緒にいたいと思えるなら、それは家族なんじゃないか。そんなことも考えられる。

そして、かあさん。かさんは、なぜ風助さんを受け入れたのか。

日本の家族の場合、結局は母親が権力を持っている。そう、ハチやアリの「巣」のように、お母さんの権限(けんげん)は強いものだ。

なんでかあさんは風助さんをうけいれたのか。そこを読解しよう。

すると「家族ってなに?」というテーマへの作者の考えが見えてくる。そこがこの作品の肝心(かんじん)なところだ。

 

☆作品の底に流れているものをつかむ

「牧歌的(ぼっかてき)」この言葉を辞書で調べてみるといい。最近、そんな感覚が恋しいという日本人が増えている。

『エディのやさいばたけ』もそうだけど、土とふれあう暮らしへのあこがれが高まっているんだ。かんこもじいちゃんから「土地」をもらう。この設定の背後に、今という時代が見えてくる。

もともと人間は土とふれあって生きてきたんだ。ところが突然、土はコンクリートでおおってしまおう、野菜は、お店で買ってこよう、そんな文化になってしまった。

最近までみんな、それでいいと思っていたんだ。しかし、そういう文明に少しずつ疑問が生まれてきている。

地球(ちきゅう)温暖化(おんだんか)とか環境(かんきょう)破壊(はかい)といったことがそうだ。「これでいいのか。このままでいいのか」って思いはじめている。

物語の筋だけをおってもダメなんだ。それでは表面的な感想しか書けないんだ。作品の底に流れている「今の時代」をつかまえなくちゃいけない。

これは牧歌的な物語。メルヘンだ。読み物として楽しみたいのなら、深く考えないで、ただ楽しんでいてもいいとも思う。

しかし、読解していこうというなら「?」と思うところを、そのまま通りすぎてはいけない。むしろ、そこに集中していくべきだ。

 

☆かんこに風助さんがくれたもの

風助さんには家族がいなかった。老人ホームで暮らしていたんだね。そこそこお金は持っている。教養(きょうよう)もありそうだ。そして、ひとりぼっちで生きている。

老人ホームに暮らす人の最後の時間のむかえ方。この作品はそんなことも考えさせられる。

風助さんが亡くなったあと、かんこは家族といっしょに、その老人ホームを訪ねていく。ホームを訪ねていった家族に、風助さんはかんこたちのことを「家族」と言っていたことが伝えられる。

そう言って、そう思って、そして亡くなった。ここはジンとくる。

 

風助さんは、かんこに土地を残してくれた。なんで、風助さんはそうしたんだろう。

風助さんの感謝のきもち……? それは違うね。

風助さんは土地をくれた。そこは風助さんが、むかし住んでいた場所だ。そこにはすぎ去った過去がある。そこで風助さんは、むかしの話、神話の話をしてくれた。

風助さんは、何かをかんこに託(たく)そうとしている。形としては「一この石とそのまわりの土地」。風助さんが、かつて住んでいた家のあとだね。

かんこは何を託されたのだろう。そこをじっくりと考えることだ。

学校や塾のように、すぐに答えなくていい。時間をかけて、自問自答(じもんじとう)して、自分の答えを導(みちび)き出すんだ。ハイハイと手を挙(あ)げて、先に答えを言い当てる競争ではない。

感想文をそんなふうに書いたらおもしろくもなんともない。「ハイ、仕上げました」で終わるだけ。それでは自分の勉強にはならないね。

☆蝶を登場させたのは「なぜ?」

ヤマトシジミは貝じゃなくて蝶だ。それはわかった。

最後の場面でかんこはヤマトシジミが「いっせいにひらひらまう」そんな想像をしている。幻想的(げんそうてき)だね。

蝶というのはたしかに幻想的なものだ。よく映画や小説にも使われる。ひらひらといっせいに舞いあがる蝶――これ何を示しているんだろう。

これで作者は何を書こうとしているんだろう。

 

「蝶がいっぱいいる自然を大切に運動」か?

そんなものじゃない。もっと真剣(しんけん)で、切実(せつじつ)で、もっと奥のあるものじゃないだろうか。そこが見えないと、この作品全体がぼやける。

 

かんこの友人のキャラクターもいい。このふたりの会話、なかなかいい。ところどころに気のきいた深みのある言葉がちりばめられている。それらを全部ヒントにして考えることだ。

この本における「蝶とはなんだ?」。いいテーマだ。この本はちゃんと向きあうと奥が見えてくる。

 

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※出典:読書感想文書き方ドリル2001(2011年)