杜子春

このお話(はなし)も、『くもの糸(いと)』と同(おな)じ芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の作品(さくひん)。どうもここでの二(ふた)つのお話(はなし)に見(み)えてくるのは、人(ひと)のためされるということを、作者(さくしゃ)は言(い)いたがっているように思(おも)えるんだよね。『くもの糸(いと)』のカンダタは、おしゃか様(さま)にためされた。そして杜子(とし)春(しゅん)は、せんにんにためされている。それは自分(じぶん)に対(たい)して正直(しょうじき)であること。その素直(すなお)さとか正直(しょうじき)さについていっているんだ。

ともすれば、この話(はなし)、ストーリーや場面(ばめん)がどんどん変(か)わっていくという大(おお)きなスケールなので、いっきに読(よ)んでしまって、ああよかったという一回(いっかい)かんけつのアニメのようなつくりなんだけど、どうしてどうして、中身(なかみ)はなかなか、深(ふか)いものがあるんだよね。ギリギリと考(かんが)え、自分(じぶん)に向(む)かい、追(お)いつめていく、そんないんしょうがあるお話(はなし)だ。

人(ひと)はいったいどうすべきなのか。そういうような人(ひと)の苦(くる)しみ、なやみ、よろこび、幸福(こうふく)、不幸(ふこう)、生(い)き方(かた)、死(し)に方(かた)、愛(あい)し方(かた)、愛(あい)され方(かた)、つきあい方(かた)、つながり方(かた)、ねたみ、しっと、悪口(わるぐち)、かげロ(ぐち)、うらぎり、しんらい、ゆうじょうなど。せいぜいがそういうことをめぐって、このお話(はなし)の作者(さくしゃ)、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)にかぎらず、人間(にんげん)はひとつの作文(さくぶん)を出(だ)している……と思(おも)ったらいいんじゃないかな。

日本(にほん)の作品(さくひん)でも外国(がいこく)の作品(さくひん)でも、古(ふる)いものも現代(げんだい)の作品(さくひん)も、だいたいが、そのあたりにひっかかりをもって書(か)いているんだ。ということは、人間(にんげん)は自分(じぶん)の心(こころ)の中(なか)を問題(もんだい)にしていく生(い)き物(もの)なんだな、と思(おも)っていいのかもしれないね。

さまざまなゆめを見(み)せてくれるせんにん、さまざまな人生(じんせい)を生(い)きてみたい杜子(とし)春(しゅん)。そして杜子(とし)春(しゅん)の物(もの)に対(たい)するよくぼう……。

このお話(はなし)の中(なか)では、そうしたさまざまな人(ひと)の心(こころ)の動(うご)きが、ためされているみたいだね。

 

 

 

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※出展:きみにも読書感想文が書けるよ(1989年)