感想文は意見だ

「感想(かんそう)文(ぶん)は意見(いけん)だ」ということは前(まえ)に書(か)いたよね。だけど読書(どくしょ)感想(かんそう)文(ぶん)というと、だいたいがあらすじを書(か)いて、さいごに「おもしろかったです」、「楽(たの)しかったです」、「ためになりました」、「勉強(べんきょう)になりました」、「心(こころ)をゆさぶられました」と書(か)いて、終(お)わってしまうんだよね。

あらすじを書(か)くのが読書(どくしょ)感想(かんそう)文(ぶん)だとしたら、君(きみ)はその本(ほん)のセールスマンか、すいせん人(にん)になればいいんだよ。「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい。この本(ほん)はこんな本(ほん)だよ、よってらっしゃい。見(み)てらっしゃい」というふうにね。そんな感想(かんそう)文(ぶん)でよろこぶ先生(せんせい)も学校(がっこう)もコンクールもあるのは事実(じじつ)。そんな時(とき)は、そんな文(ぶん)を書(か)いていけばいいじゃん。

だけど、しっかりしたしんさ員(いん)や先生(せんせい)は、ほんとうの読書(どくしょ)感想(かんそう)文(ぶん)を、それとはちがうところで見(み)ているんだよ。それは君(きみ)の意見(いけん)文(ぶん)としてね。そして君(きみ)の考(かんが)え方(かた)、見方(みかた)、意見(いけん)に目(め)をむけているということなんだ。

さて、感想(かんそう)文(ぶん)は意見(いけん)文(ぶん)だと考(かんが)えてみると、君(きみ)たちは、かたのにがスーッと軽(かる)くなってくるだろう。だって、あのまどろっこしいあらすじなんか、ひとつも書(か)くことないんだからね。

意見(いけん)文(ぶん)を書(か)くためには、五(いつ)つのビッグポイントがあるんだ。それは〝自分(じぶん)の意見(いけん)〟を書(か)いたら〝なぜなら〟〝たとえば〟〝もしも〟〝だから〟。じゅんばんはどうであってもいいけど、このポイントが入(はい)っていて初(はじ)めて、君(きみ)の意見(いけん)文(ぶん)となっていくんだよね。

たとえば、

意見(いけん)  けっきょく人間(にんげん)は、自分(じぶん)の今(いま)いる生活(せいかつ)の中(なか)に、よろこびや幸福(こうふく)や未来(みらい)がつまっていると思(おも)うのです。

例(れい)   よく友(とも)だちのもっているものや、よその家(いえ)の幸(しあわ)せをうらやましいと思(おも)ったりしますが、そんな時(とき)には自分(じぶん)の身(み)のまわりにある、それ以上(いじょう)のかちあるものを見(み)つけ出(だ)す努力(どりょく)をしていないとも言(い)えます。

例(れい)   チルチルとミチルは幸(しあわ)せの青(あお)い鳥(とり)をさがしに行(い)きますが、ぼくはそんなものはさいしょっからないと思(おも)っていました。

例(れい)   ただしんせきのおじさんの買(か)ったブルーバードは、いいなあと思(おも)います。しかし、うちには自転車(じてんしゃ)しかありません。

なぜ幸(しあわ)せになりたいと思(おも)うのでしょう。もしかしたら、幸(しあわ)せになりたいと思(おも)うのは、不幸(ふしあわ)せを知(し)っているからじゃないだろうか。なぜなら、夜(よる)を知(し)らない人(ひと)は昼(ひる)も知(し)らないということですから。

だから、これほしいあれほしいという気(き)もちをもつことが幸福(こうふく)であって、きっと自分(じぶん)の身(み)のまわりから起(お)こってくる希望(きぼう)というものなんです。それが幸福(こうふく)。

とかなんとか言(い)っちゃったりして……。

そういうことで、幸(しあわ)せの青(あお)い鳥(とり)のほね組(ぐみ)はできあがってくる。肉(にく)づけのためには〝たとえば〟〝もしも〟をいっぱいあげればいいんだよ。これが素材(そざい)。そうすれば、ないようはいっきにふくらませていけるってこと。自分(じぶん)が自分(じぶん)の意見(いけん)を書(か)くための材料(ざいりょう)は、文章(ぶんしょう)の部分的(ぶぶんてき)なすじや人(ひと)のおこない、ことばをつまみ出(だ)していけばいい。でも、全体(ぜんたい)のお話(はなし)にこだわって、本(ほん)にふりまわされると、つまらない読書(どくしょ)感想(かんそう)文(ぶん)になっていってしまうよ。

 

 

 

※上記の著作権は宮川俊彦にあります。
※無断での転用・転載を禁じます。

※出展:きみにも読書感想文が書けるよ(1989年)