サラ・ガーランド・作 真木文絵・訳
ボクも今、野菜畑を作ろうとしているんだ。だからいい勉強になった。「そうか、ナメクジは夜になると元気になるのか」とかね。
むかしは、みんな自分の家で野菜を作っていた。今は日本中どこでも都会の生活になって、野菜を買ってくることがあたりまえになったね。
でも、今あたりまえのことが、これから先もそうであるとはいえない。
野菜は自分の畑で作るのがあたりまえ、そういう文化にもどるかもしれない。だって、いなか暮らしがイヤだったボクが、自分で畑を作ろうとしているくらいなんだから。
もっとも、クワを買ってきて十分土をいじっただけで、もうくたくただ。なかなか思うようにいかない。
☆野菜はだれかが作っている
この一家はなかなかすごい。エディのママのパワーもたいしたものだ。ボクにはとてもかなわない。ボクはひとりじゃ、なかなかできない。みんなでわいわいやらないとダメなようだ。
畑をたがやして、タネをまけば、すぐに野菜が育つわけではない。除草(じょそう)剤(ざい)や肥料(ひりょう)もやらないといけない。でも、ボクにはやりかたがわからない。
畑をはじめてから「土用(どよう)」という言葉の意味を知った。土用には土をいじってはいけないのだそうだ。なるほどと思った。今まで「土用うなぎ」とか「土用波」くらいしか知らなかった。
農業はすてきだ。いろんな知識が求められる。農業には、山ほどの知識がつまっているんだ。
人の歴史は、まだ農業の時代なんだ。世界は農業でつながっている。
お店で売っている野菜やくだものだって、元々は農業で作ったものだ。外国から輸入しているものだって、だれかが育てたものなんだ。
「買って食べる」でなく「作って食べる」のが人間の原点だ。そこを、見ていかないと、あぶないような気がする。
みんな野菜を作ったらいいよ、作ってみたら、きっと何かがみえてくる。「作って食べる」それだけでは終わらない。
ボクはこどものときにイチゴを作った。
「きょう食べられるかな」と急いで学校から帰ったら、アリに先を越(こ)されていた。食べごろになったイチゴをアリがたべていたんだ。くやしかった。
アリだっておいしいときを知っている。畑を通(とお)して、生き物どうしの競争(きょうそう)を知ったんだ。
☆実際(じっさい)にやってみよう
エディはえらい。自分の畑を作ろうとする。
そう思ったら、すぐできるというのはすごいことだ。都会にいると、その点は不便(ふべん)だね。都会暮らしは、大切なものが抜(ぬ)け落(お)ちている感じがする。
きみも畑を作るべきだ。感想文を書いている場合じゃない。
たとえ庭がなくたって、ベランダでつくったらいい。そこで作れる野菜だってある。
パセリやシソなんかどうだろう。じょうぶだし、あとで食べることもできる。二十日(はつか)大根(だいこん)も作りやすいようだ。
なんでも自分でやってみたらいい。虫と対決(たいけつ)したり、野菜が病気にならないように工夫(くふう)するんだ。そこで自然との関わり方を研究(けんきゅう)するといい。
マニュアルどおりにやるだけなら勉強にならない。自分でやってみることだ。そして失敗することだ。
失敗の連続が人をかしこくする。成功だけならきっと退屈(たいくつ)だからね。
☆自然はすごい!
土が大切なんだね。そして水、日光、空気。あたりまえのことがとても新鮮(しんせん)で神秘的(しんぴてき)な感じさえする。
「自然の恵み」というのは本当だね。なにが欠けてもできない。
ぼくが畑にまいたタネは、芽が出て一週間で枯(か)れてしまった。原因はたぶん土だ。深くしっかりと畑をたがやさなかった。それに草もちゃんととらなかった。
育てるには、しんちょうに、ていねいに、赤ちゃんにそっと布団(ふとん)を掛(か)けてあげるような心配りが大切だと知った。タネくんには悪いことをした。
エディとママのやり方は実に参考(さんこう)になる。ボクもこうすべきだった。大切にていねいに。そうだよね、命なんだものね。
小さな芽が出る。これは感動ものだ。
そして大きくなっていって、自分の背を越すまでになるものさえある。これはさらに神秘的だ。「元は小さいものが、どうしてこんなに大きくなるのか」と思ったりする。
中国に「畑には、なんでも山ほど同じものができるつぼが埋(う)まっている」という話がある。
それを読んだとき「そうか、畑そのものじゃないか」と思った。畑があれば、野菜や果物を量産(りょうさん)できる。毎年毎年収穫(しゅうかく)すれば、いつかは山ほどのものがとれるだろう。考えたらすごいことなのだ。
自然というのは、そんな舞台(ぶたい)なんだね。だから反対に「必要なものを必要なだけ作る」という文化もできたんだろう。
いくらでもとれるからといって、もっともっと、とやっていったらバランスを崩(くず)すんじゃないかな。そこに自然をコントロールするための知恵がありそうだ。
☆別の要素(ようそ)を持ち込んで、作品をふくらませる
土地というのは不思議(ふしぎ)なものだと思う。そこには、いろんなものが混(ま)ざっていて、地表をおおっている。
土は植物を育て、枯れた植物を受け止めて、さらに土を作り続けていく。土は昆虫も育てる。そして人も動物も、その上で生きている。鳥だって死んだら土が引き取ることになる。
化石だって土から見つかる。過去はみんな土の中にあるんだ。それが不思議だ。それなのに突然、土はきばをむく。割れたり、ゆれたり、崩(くず)れたり。しかし、次の瞬間(しゅんかん)なにごともなかったかのように安定を見せる。
どれも土だ。台地のなせる業(わざ)。人や生き物は、土の恩恵(おんけい)も受けるが害も受ける。ちゃんと両面を見るべきだ。
この作品には地震については、何も書いていない。ただ台地の恵(めぐみ)だけを書いている。だからこそきみはそこにある別な面を見ていくべきだ。
「土とは、なんなんだろう?」とね。
自然とはなんだ?
自然を相手にするということは、どういうことだ?
自然を相手にしないと人間は生きられないのか?
感想文というのは、作品に書いてあることだけ考えていればいいんじゃない。別の要素を持ち込んで「作品をふくらませる」ということを、読み手がしてもいいんだ。
いろんな要素を持ち込んでみるといい。感想文に厚みがでるよ。
☆感想文には、きみの体験を書くのがいい
なんどもいうけれど、体験してみることが大事だよ。
感想文には、きみの体験を書くのが一番だ。本の中に書いてあることと、きみの体験を重ねてみたらいいんだ。
「ボクもやってみた」という文で書きはじめればいい。そして、物語と自分の体験をくらべたり、本には書いていないことを、自分の体験でおぎなったりすればいい。
そういう読み方もあるんだよ。
「読んで、どう思ったか」ではなくて、「読んで、やってみて、どう思ったか」だね。
本当はね、これが本の読み方の王道なんだ。
読んでいて「へえー」と思ったり「なるほど」と思うところがあったら、それをそのまま終わらせちゃだめだ。自分でもやってみるべきなんだ。
本を読んで知ったことを書きだす。そして、自分でやってみた感想や、きみの考えなどを披露(ひろう)する。そうやって書き進めるといい。
野菜について、ボクは考えていることがある。
野菜を作るとき、ただタネをまいて、あとは雑草(ざっそう)のようにほっといたら、やっぱりダメなんだろうか。ボクはいちど失敗したけれど、まだあきらめていない。
もしかしたら、ほうっておけば、自然で強い野菜ができるのではないだろうか。あるいは、見たこともないような、新しい野菜になるのでは。
そんなふうに思う。食べられる雑草もあるしね。野菜も雑草も、もとは同じなんじゃないかとね。
だれも人の手をかけていない畑以外の場所で、自然に広まって、その土地に根付く、そういうことだって、あるのではないだろうか。
たとえば、沼地(ぬまち)に稲を植えて何年も放置(ほうち)しておく。そうしたら、どうなるだろう。やじゃり枯れてしまうのだろうか?
ただ教科書どおりに、正しい方法で作るのでなく、別のやり方をしてみたらどうなるのか気になる。
きっと多くの人は「正しくやる」そこに、こだわるはずだ。
でもね、ボクは「正しいじゃがいも」なんて、あるわけないと思いたいのだ。
形がヘンなら売れない、なんて考えるのもバカなことだと思うんだ。
きみは、どう考える?
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※出典:読書感想文書き方ドリル2001(2011年)