マァね。ふつうに考(かんが)えてみれば、竹(たけ)のなかに女(おんな)の子(こ)がいるってことは、こりゃすて子(ご)だね。
不思議(ふしぎ)なんてことをズーッととおりこしちゃって、あぶない親(おや)だなあ、と思(おも)えてしまうのです。とても変(か)わった親(おや)なんですね。
それにこのかぐやひめ、いったいこの人(ひと)は何(なに)をしたんでしょう。
竹(たけ)のなかからぶじ助(たす)け出(だ)されて、月(つき)にかえるまでのあいだにおじいさんやおばあさん、天皇(てんのう)やら何(なん)やら、そのほかの大(おお)ぜいのかぐやひめファンのみんなに対(たい)して、かぐやひめのしたことといったら何(なに)か。
それに目(め)をむけて考(かんが)えて読(よ)んでいくだけでも、ちょっとほかの人(ひと)たちとはちがう感想(かんそう)文(ぶん)ができるって思(おも)わないかナー。
だってサー、ふつうの人(ひと)は、
「ヘェー、月(つき)にかえっちゃったの。スゴイ」
なんていうぐらいで、ちっともおもしろくないんだもん。そんな読書(どくしょ)感想(かんそう)文(ぶん)を、この本をもうこんなに読(よ)んでしまった君(きみ)たちがかいちやったら、ボクはとってもガッカリして、目(め)になみだをためて、グッスンなんてことになっちゃいます。
ここではね。少(すこ)し本(ほん)からはなれて、ひややかに、つきはなして、かぐやひめを見(み)る目(め)をもってほしいんだよね。
それができれば、かぐやひめが月(つき)にかえってしまったあとにのこされた
人(ひと)たちのすがたや心(こころ)がわかるんだ。
いつもいつも、去(さ)っていく人(ひと)だけはうつくしい。でも、去(さ)っていく人(ひと)があれば、かならずのこる人(ひと)もある。のこされた人(ひと)たちっていうのは、いったいどうなるのか。
そこらへんに君(きみ)たちが心(こころ)をよせて、感(かん)じることができるようになるとき、ふつうの人(ひと)たちは気(き)がつかない、ハッとするような読み方(よみかた)ができるはず。
物語(ものがたり)のなかに出(で)てくる人(ひと)たちは、つくりものでしかないのだけれども、じつはいまもこの世界(せかい)のなかで、その心(こころ)は生(い)きている(カッコイイねえ、宮川(みやがわ)大先生(だいせんせい)!と声(こえ)がかかる)。
そういうように、登場(とうじょう)人物(じんぶつ)の感情(かんじょう)といいますか、気持(きも)ちといいますか、マア、そういうところまで読(よ)みとってあげると、月(つき)にかえったかぐやひめは、大(おお)つぶのなみだを流(なが)してよろこぶにちがいないんだナ、これが。
ひとときの、みんなですごした楽(たの)しい時間(じかん)が、どのようにやってきて、どのように去(さ)っていくのだろう。とつぜんに仲(なか)のいい友(とも)だちが遊(あそ)びに来(き)て、そして夕食(ゆうしょく)の時間(じかん)になるとかえってしまった。とってもカワイイ女(おんな)の子(こ)が転校(てんこう)して来(き)て、半年後(はんとしご)にまた外国(がいこく)に転校(てんこう)してしまった。
もっと大(おお)きく考(かんが)えてみると、人間(にんげん)がこの世(よ)に生(う)まれ、死(し)んでいく。この世(よ)のあいだというのは、ほんのほんのいっしゅんの楽(たの)しさだったともいえるんじゃないかナ。
もしかして、このかぐやひめは、ほんとうにおじいさんとおばあさんの子(こ)どもだったのかもしれない。君(きみ)たちが大(おお)きくなったら、そうなるように、おとうさんおかあさんとはなれて、家(いえ)を出(で)てひとりでくらしていく。そうだ、かぐやひめはひとりぐらしをはじめたのかもしれない。
こういったことも考(かんが)えられるよね。
高(たか)い木(き)の上(うえ)にある鳥(とり)の巣(す)。そのなかではヒナ鳥(どり)たちが大きな口(くち)をあけて、
「ハラ、へった、ハラ、へった」
とそうぞうしい。そこに親(おや)鳥(どり)はいっしょうけんめいにエサをはこんでくる。
ムシをつかまえては巣(す)にもどり、そしてまた、つかまえに出(で)ていく。
しかし、大(おお)きくなったらヒナ鳥(どり)たちは、その巣(す)をあとにして、サッととび立(た)って、もう二度(にど)と巣(す)にかえってくることはない。親(おや)と会(あ)うこともないかもしれない。
キタキツネ、タヌキ、クマもおなじ。
かぐやひめの物語(ものがたり)を、そこまで読(よ)んでいくのもとてもおもしろいこと。
そして、のこされた親(おや)鳥(どり)、親(おや)キツネ、親(おや)タヌキの心はどうなのだろうか?
もしも、家(いえ)を出(で)ていなかったら、たとえ親子(おやこ)であっても、ケンカをしてしまうかもしれない。そういうことを考(かんが)えてみてもいいよね。
いままでいってきたこと以外(いがい)でも、たくさんあるゾ。
たとえば、けっこんしてくれっていってきた五人(ごにん)の男(おとこ)の人(ひと)に、できもしないことばっかりいうかぐやひめ。お前(まえ)はいったい何(なに)様(さま)のつもりなんだ。
はらの立つやつだナァ。とか。
いま、マドンナブームとか、女(おんな)の人(ひと)が強(つよ)くなったなんていわれているけど、もうずっとむかしから、女(おんな)の人(ひと)は強(つよ)かったのかもしれない。そんなことまで考(かんが)えられちゃう。
さて、君(きみ)たちはかぐやひめをどう読(よ)む。
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※出典:きみにも読書感想文が書けるよ パート2(1・2・3年向)(1990年)