だいたいの物語は、作者が主人公などの生きかたやことばを通して、自分の意見や考えかたを強くうったえて、主張をしていることが多い。だからあんがいわかりやすい。そこに注目しよう。
それにくわえて、なんでも主人公になるんだから、きみが見つけた主人公になにを言わせようとしているかは、きみがそうぞうして考えることになる。
もっと言っちゃえば、なんでもテーマ(※1)になるということだよね。ぎゃくにひとつのテーマをはじめからきみがもっていて、そのテーマに対する意見や答えを見つけることもできるね。
※1 テーマ=物語の中心となることがらや考え
【話の見取り図】
読んでいるだけでわからないときには、そりゃあもう図にして考えるにかぎる。物語を
「せつめいしているところ」
「ものごとのようす・うごき・感じを書き表しているところ」
「心の中を語っているところ」
の三つに分けてみないか。色えんぴつを三本用意しなよ。これとっちゃまん流。
国語の勉強になったりして。こうすれば話のスジも、心のうごきも見えやすい。
【もしも~だったら】
たとえば『ウラシマ太郎』。「海の底の城」というのは、きっと「とうてい手がとどかない、かんぜんに行けない場所だろう」とか、「行ってみたい『ゆめ』
のような理想の場所・理想のくらし」とか、「今の生活ではないところ」とか、
「まだだれにも知られていない旅行先」とか、いやいや「自分の中にある、『もしも』の部分」とか、考えていける。するとそれが「もしも」になっていく。
「もしも、このお城がよそのすすんだ国だとしたら」
「もしも、ほかの星に行ったんだとしたら」
「自分の中への旅だとしたら」
といったふうに。
そうするといろんなそうそうが広がって、「だったら、これはこういうことか」
「これはこうか」と、文のスジやだれかの言ったことばが、くいちがわずに合ってくるようになったりする。
それが正しいかどうかはだれにもわからない。こんなふうにボクは考えたんだ。こんなふうに読んでみたんだ。それでいいんだよ。
もっとすすんで、スジを変えてしまったら、というのもいい。
白雪ひめに王子様が気がつかなかったら。
……骨になるよね。
シンデレラがぶ(・)とう(・・)会(かい)から帰っても、そのままなにもおこらず、おばあさんになったとしたら。
……これありがちだね。
冬になる前にアリが死んでしまったら。
……キリギリスもこまるが、それよりアリは幸せだろうか。
感想文としては、おもしろいものができるよ。
【もしボクが】
よく感想文に書かれているよね。「ボクが主人公だったら、きっと……」という文。
いい方法だと思う。自分がその話の中にいたらなにになろうかな。こんなときボクならこうするぞ。ここはボクとちがう。ボクはきっとこうする。
そう思って読んでいくと、楽しくなる。
ボクはいつもなりきってしまうし、読みおわって「ふー」とへやを見るとふしぎな感じになる。今までボクはどこにいたんだっけ、と思うんだ。きっと本の中にいたんだね。
きみもそんな「けいけん」あるでしょう。読書の楽しみだね。いろんな場面、いろんな時代、いろんな人になっていくことができる。悪人になったり、ヒーローになったり。その話を空から見ている気持ちになったり。
「ボクが、~だったら」、これはつかっていい。感想文の中に一回はつかっていい文の形だと思うよ。
またそうやって読んでいくと、発見も生まれる。
【材料は多いほどいい】
一つの作品だけだと、その本についてだけの感想文でおわってしまいがち。
「前に、この作者のこんな本を読んだことがあります。それは……」というように、ひとりの作者のちがう本などを引っぱり出して、くらべたり、テーマについて考えたりすることもいい方法だ。
ちがう話をもってくる。さいきんおこったできごとをもってくる。まったく反対のことを言っている本をもってくる。有名なことばや、ことわざをもってくる。ママの口ぐせをもってくる。
考えるときの一つの方法として、にたものさがしや、ちがうものさがしはあっていい。
そして意見を書くときには、材料が多いとおく(・・)が深くてゆたかな感じが出る。
「この本ではこう、あの本の場合はこう、うちの場合はこう」といった文が書ける。知っておいていいよ。
【読むことは知ることだ】
生きていくために、自分らしく生きていくために、自分のレベルをもっと高め、深めていくために、知るひつようのあることはたくさんある。
道具のつかいかたを知る。これもたいせつ。
ボクらのまわりは道具でかこまれている。えんぴつもおサラもコンピューターもことばも教科書も学校も、みんなきみにとっての道具だね。
それをいつも生み出し、つかいこなし、組み合わせていくことをボクらはしてきた。ハッキリ言おうか。
「道具を作り、つかい、じょうずにつかっていく」ということによって、人の生活はなりたっています。
世の中を知る。世界を知る。これもひつよう。きみがどこにいてなにをしているのか。「ここは地球で、太陽系の三番惑星で、四十六億年たっていて、その中でも大陸のはしにある島の日本という国にいて・・・」
というように今自分がどこにいるか、今いる世界はどんなところか、ということを知ろうとして「かがく」や「れきし」の研究があります。それがわからなければ、きみがなにをしていいのかもわからない。なにをしてはいけないかもわからない。ことばや本は知ることのためにあるんだよ。
【書き手の立場になって読む】
書き手の目になったり、心になったりしていくといいよ。
読むことは、どう書いているかを知ることだものね。
・なにをどうやって語ろうとしているか
・なにをどうくふうして伝えようとしているか
・そのためにどういう材料をつかっているか
フムフム、なるほどこの書き手はこうやってるんだ!ということが見えたらしめたもの。深い読解(読みとり)とすごい感想文のほんとうのスタートだ。
人は人から学ぶんだ。
【「ひはん」する】
「ひはん」というのは、けなしたり、わる口を言ったり、ばかにする、ということではないよ。
「テメー、コノヤロー、バカヤロー、こんなもん書くんじゃない」という感想文も、たまにはいいが、チトこまる。
「ここはよくないよ」「ここ問題だよ」「ここボクとちがう」「まちがっていると思う」というように書いていいんだ。ぜんぶに感動することはない。正直に意見をぶつけていい。
これは「こんなふうに見たらこう見える」ということなんだ。ものの見かた・考えかたの一つ。
【書いていない文を読む】
書いてある文。きみの目の前の文は、それは「見せている文」。
書き手はとてもうまく、ほんとうに言いたい文をかくしているかもしれない。
『はだかの王様』でも、ウソつきがいて、作った洋服をみんなは見えないのに見えると言ってしまった。そのようすを見ていて、子どもがなにも着ていないと言った。こんな話だよね。
かんたんに、物語に書かれていることだけ読めば、「子どもは正直だ、だから
正直はたいせつだ」、でおわってしまう。
しかし、ここで考えてみよう。ではボクらはいつも見えているものだけを語っているかな。
ボクらは日本人だとみんなが思っている。では日本という国は見えるかな。飛行機にのってみよう。空からとなりの国とのさかいめは見えない。陸と海しかない。
でも、ボクたちは日本という国にいて、日本人だと思っている。見えないものをあると信じている。正しいとか、まちがいというのも見えているようで見えていないんだ。
みんながあると信じていることで王様の行列がすすんでいる。このお話をボクらは笑えないね。それどころか、「なにも着てない!」とさけんだ子どもは、犯罪者(はんざいしゃ)(※2)とか、おかしなやつとして、こらしめられるかもしれない。
「みんなはこれを笑えるかな?ムフフフ」と作者のちょうせん(・・・・・)(※3)を感じない?
ここにはかくれた文や、かくれたメッセージ(伝えたいこと)があるんだ。この書き手は書かないで、読者に読みとらせようとしている。
算数のむずかしい問題を出された気分だよね。よーし、やってやろうじゃないか。そんなふうにはりきって、取り組もうという気持ちがわいてくるよね。
※2 犯罪者=ほうりつや決まりをやぶって、いけないことをした人
※3 ちょうせん(挑戦)=たたかいをしかけてくること
【人の基本(きほん)問題(もんだい)を読む】
このことがわかっていないと、読まされておしまいになってしまう気がする。
人がかかえている問題を読みとり、わかるためにたいせつなこととして、いつも考えているといいね。
本のもっている問題=人が生きるうえでの問題
・なぜ生まれてきたか
・なぜ死ぬか
・どうやって生きていけばいいか
・生きるとばどういうことか
・しなければならないことはなにか
・強い・弱いとはどういうことか
・心とはなにか
・意味のあることとか、意味のないこととかは、あるのか
・自分とはなにか
・ほんとうの自分とはあるのか
・「かんきょう(※4)」の問題
・自然
・社会
・親子
・人 ………
本の作者もこれらをテーマにして書いている。
※4 かんきょう(環境)=自然や自分の家のように、人や生き物をとりまいている世界
【いったいこの話はなんだろう】
さて、ここまで読んできて、もうわかったでしょう。この話はなんだったんだ、その話のもっているメッセージは、というまとめはできるよね。
でもそこでおわらない。そこからつぎの探求・読解の世界が広がっていくんだ。
人と語り合ってみよう。感想文を書いてみよう。その本、作品をせん(・・)でん(・・)したり、人に伝える文を書いてみよう。
「この本はいったいなんなんだ」ということをいつも頭においておくんだよ。
線を引きながら読んだので、本がグチャグチャとか、ボロボロというくらいやってみていい。きれいな本がいいならもう一度買ってきたらいい。むかしの学生に、さいごには本を「食べちゃった」という人もいるくらいだ。
ここまで話してきたようなことは、今までまったく知らなかった読みかただ、という人もいると思う。本の世界がものすごい広がりをもっていくことをわかってくれたかな。
いっぱい読むのもOK。一つだけをじっくり読むのもOK。
【読むと書くとはイコールの関係】
考えたり思ったりしたことを、ことばや文で表すこと(表現)と、それを読んでわかること(理解)とは、はっきりイコールでむすばれているんだ。
わかるから意見になるんだ。意見があるからテーマを見つけ出せるんだ。
ここまでの読解の方法をつかってみよう。そして、なにかが見えてきたとき、それをどうする?
書いてみようよ。そうするしかないだろうと思う。
今まできみが書いてきた感想文とはかくじつにちがっていくはず。
それはきみだけの意見。世界にたったひとつしかない意見。
感想文は意見だ。きみがどの本・作品をどう読んだか、が感想文。
もう書けるね。キライじゃないよね。
【作品は「げいじゅつ」だ】
スペインという国で生まれた、有名な絵かきのピカソを知っているかな。ピカソの絵を見たときに「すごい人だよ」と言われても、どうも、そうじゃないような、なんだか自分にも書けそうな気がしてしまったってことはないかな。
「天才と言われているんだからすごいんだろうな。だったら『すごいんだろ
う』」って感じかな。
でも、きみが作者を知らなくても、この絵はいいなぁとか、気に入ったなぁ、という作品に出会えるものなんだ。そんな自分をたいせつにしていきたいね。
ピカソの作品の中に、女の人の顔があっちむきこっちむきになって、なんだかめちゃめちゃという絵があるよね。これは、顔をいくつかの部分に分けて、それぞれをいろんなかくどから、きょりから、見ていったものと考えてみよう。絵がうまいとかへたということではなく、そこに強いメッセージを感じないかな。人の顔をいろんなところから見る。そうしないとほんとうの顔は見えないじゃないか。けれどもそれは、絵を書くためのひとつの平らな面の中にはこうやっておさめられるしかない……、とかさ。
知って見るのと、まったく知らないで見るのとはちがう。知らせることはよけいなお世話かもしれないな。しかし、ピカソのメッセージのように、いろんなところから見ていいんだよ、ということも伝えないと、「天才だぁ」と決まりきった見かたをするだけ。通りすぎるだけにおわってしまうこともある。
もったいない。ボクらのまわりには作品がいっぱい。本ももちろんそうだ。きみの文ももちろんそうだよ。
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……、ハイごくろうさま。ここまできちゃったね。もうカンペキだよね。感想文なんてラクチンになっちゃっただろう。さてと今回はこのくらいにしておくかな。
わからないことがあったらいつでも連絡してくれていいんだよ。じゃあね。
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※出典:これで読書感想文の名人だ