しかしまあ、どんくさいやつがいるものだと思(おも)って読(よ)んでしまう。
引(ひ)っこみじあんで、じしんがなくて、友(とも)だちになりたくても、とり入(い)りたくても、手(て)も足(あし)もでない。よくあることといえばいえるけれど、何(なに)やらイライラさせてくれるよね。
いじめられるタイプの子(こ)だろうな。
1.どうやって友(とも)だちになっていくのか考(かんが)える
いじめについての君(きみ)の考(かんが)え、どうすれば、いじめから――いじめることからも、いじめられることからも――ぬけでることができるのか。そのヒントは何(なん)だろう、やさしさ、あいじょう……ということだけじゃなくて、ほかにもあるんじゃないのかな。このお話(はなし)の主人公(しゅじんこう)、新司(しんじ)が何(なに)をきっかけとして、友(とも)だちをつくったのか、ということを考(かんが)えていくといいだろう。
しかし、このお話(はなし)のようなかたちで、友(とも)だちは本当(ほんとう)にできるのかどうか、ということも、君(きみ)たちのじっさいの生活(せいかつ)を、考(かんが)えてみるとおもしろいだろうね。
どうやって友(とも)だちをつくったのか。君(きみ)たちがはじめて、今(いま)の友(とも)だちと出会(であ)ったとき、そこからどうやって友(とも)だちになっていったのかを、思(おも)いだしながら考(かんが)えてみること。その自分(じぶん)の場合(ばあい)とこの新司(しんじ)の場合(ばあい)を、くらべてみるといいんじゃないかな。
2.そんなにかんたんに友(とも)だちになれない
これを読(よ)んでみて、「こりゃ、お話(はなし)だな、やっぱり」と思(おも)った人(ひと)も多(おお)いはず。もちろんつくりごとのお話(はなし)で、新司(しんじ)というそうそう上(じょう)の人(ひと)の場合(ばあい)にすぎないんだから。
「ぼくのけいけんからすると、新司(しんじ)はこれからも、もっとひどいいじめにあうでしょう」とか、
「いじめたりからかったりしている子(こ)たちも、おもしろがってやるのでしょう」
「ぼくもデブやこんなふうにきみの悪(わる)いやつはイヤです。なんといわれてもいやです」という意見(いけん)が生(う)まれてきても、いいはずだ。
3.友(とも)だちをつくるむずかしさ
こんなにしなくてはならないのか。それでもこうすれば、友(とも)だちになることはできるのか。そして、これからはなかのよい友人(ゆうじん)になれるのか。人(ひと)はどうして人(ひと)を求(もと)めて、友(とも)だちになろうとするのか。友(とも)だちになるために、どうして自分(じぶん)のことをせめたり、ムリしてコップ十(じゅっ)ぱいもの水(みず)をのんだりするのか。それによって何(なに)が手(て)に人(ひと)るのか。それに一時(いっとき)友人(ゆうじん)になっても、またはなれてしまうことだったある。
人(ひと)の心(こころ)を気(き)づかいながら、それでも友(とも)だちを求(もと)めていくのはなぜなんだ、と考(かんが)えていこう。
4.友(とも)だちはいらない
3を進(すす)めていくと、友(とも)だちなどいなくてもいいという考(かんが)えも、でてくるだろうと思(おも)うよ。友(とも)だちなんかいなければいないで、いいじゃないか。一人(ひとり)だっていいし、それにたえることも大切(たいせつ)だ。さみしいから友(とも)だちがほしい。そのためにいろんな思(おも)いをする。このブーちゃんは、ここでもまた、そんなふうにかんたんに考(かんが)えてしまうんじゃないのか。人(ひと)のためにごかいされたり、いやな思(おも)いをしたり、それはほんとうに友(とも)だちをえるために、ひつようなことなのか。みんなそんな思(おも)いをしてまで、友(とも)だちをつくろうとしているのか。どうもムリがあるよ。友(とも)だちはなくてもいいし、友(とも)だちをつくれない子(こ)だって多(おお)い。どうして友(とも)だちがひつようなんだろう。どうして友(とも)だちをつくらなくてはいけないんだろう。
と考(かんが)えていけば、きっと深(ふか)く味(あじ)のある文(ぶん)になっていく。
先生方(せんせいがた)や親(おや)たちが、「友(とも)だちは大切(たいせつ)よ」というけど、いったい何(なん)のためにそう言(い)うのか。さぐってみるのもいいだろう。
5.友(とも)だちはつくるもの?できるもの?
友(とも)だちはつくろうとするものか、しぜんにできていくものか。人(ひと)と人(ひと)とがたがいにつながりあって、ともに手(て)をとりあって生(い)きていこうとすることは、大切(たいせつ)なようにも思(おも)う。だけど、友(とも)だちは自分(じぶん)のつごうやたがいのプラスのため、ということでつくっていいものなのか。しぜんに自分(じぶん)は自分(じぶん)らしくふるまい、自分(じぶん)らしくやっていこうとするときに、しぜんにできていくものではないか。こんなふうにも考(かんが)えてみよう。
6.見逃(みのが)し
新司(しんじ)はひょっとしたら、クラスの他(ほか)の人(ひと)やもっと小(ちい)さな子(こ)たちの中(なか)で、自分(じぶん)と友(とも)だちになりたがっている子(こ)や、すぐなかよくなれる子(こ)を見(み)つけられたかもしれない。でもそこは見(み)ないで、章太郎(しょうたろう)君(くん)だけをみて、なかよくなりたいというのは、自分(じぶん)の気(き)もちとしてはわかるけど、大切(たいせつ)なことを見(み)のがしているんじゃないか。
友(とも)だちになりたいからなりたい。そういう自分(じぶん)は人(ひと)にどう思(おも)われ、どんな目(め)で見(み)られているんだろう、親(した)しくなりたいと思(おも)う子(こ)、さみしがっている子(こ)、そうした子(こ)たちに目(め)を向(む)けることはできなかったのか。足元(あしもと)をべつな目(め)で見(み)ることもしないで、自分(じぶん)の好(この)みだけをおしだす。こんなことで新司(しんじ)は、ほんとの友人(ゆうじん)ができるだろうか。ゆうじょうは長(なが)つづきするだろうか、いつかあきられて放(ほう)りだされてしまうのではないか。
7.失敗
この本(ほん)のもうひとつのテーマは"しっぱいするのがこわい"っていうこと。
「がんばらないでわらわれるのは、当(あ)たりまえだと思(おも)ってがまんできる。がんばってしっぱいしてわらわれるのははずかしい。しない方(ほう)がまだかっこうがつく」
という文(ぶん)を引(ひ)っぱりだす。
ここではふつうには「だからどんなことでも自分(じぶん)からじしんをもって、やっていけばいいと思(おも)います。やるだけやったら、どんなしっぱいでも自分(じぶん)でなっとくできます」
というような意見(いけん)がでてくるところ。その意見(いけん)で書(か)いていく子(こ)は、かなり多(おお)いだろうね。
しかし、この新司(しんし)の思(おも)いにも一理(いちり)ある。時(とき)として自信(じしん)のないことをかわしたり、頭(あたま)を下(さ)げていくこともひつようだよ。いつも向(む)かっていけというだけだと、ひくことができなくなるときがあるもの。新司(しんじ)の思(おも)いは正直(しょうじき)な気(き)もちだし、しっぱいをおそれ、だったらしないほうがいいと思(おも)っている人(ひと)は、世間(せけん)にもいっぱいいるはずだ。それはいけないことなのかな。
みんなががんばってさえいればいいというのは、ちょっと、大(おお)ざっぱすぎるんじゃない。しっぱいしたらどうしようと、クヨクヨしながら、それでもやってみようかとか、やっぱりきょうはやめとこうかなとか思(おも)ったりするところに、人間(にんげん)のあたり前(まえ)のすがたがあるんじゃないかな。
8.人(ひと)にみられる、みせる
新司(しんじ)は、"はくしゅをあびる自分(じぶん)"を思(おも)いえがく。しっぱいしても、人(ひと)にみられることをいしきして"かっこう"ばかり気(き)にしている。
どう思(おも)われようとやるだけやればいい。ひょうばんや人(ひと)の目(め)はそこからついてくる。ということもいっている。それも事実(じじつ)だ。同時(どうじ)に人(ひと)の世界(せかい)は、かならずその人を正(ただ)しくひょうかしてくれるとは、かぎらないものなんだ。人(ひと)にみとめられていこうとしたら、それなりのどりょくはしなくてはならない。人(ひと)が何(なに)を思(おも)い何(なに)を考(かんが)えて、何(なに)をひょうかしようとしているのかを知(し)ることだよ。それは、みとめられるものを気(き)にするとすれば、していっていいということだね。しかしながら、見(み)られることばかりを考(かんが)えると、自分(じぶん)を見(み)うしなってしまう。
自分(じぶん)なりにやればいいけれど、それだけでもいけない。新司(しんじ)は自分(じぶん)の中(なか)にしか目(め)がいっていないようにもみえるけど、君(きみ)はどう思(おも)うかな。
9.しつばいの悲(かな)しさ、ステツブ
「しっぱいは悲(かな)しいものではない。それはつぎへのステップになる」というのはかんたんだよね。でもたった一回(いっかい)のしっぱいで、死(し)んでしまったり、人(ひと)をころしたり、あやまちがつぐなえないものだってある。それなのに、いつもいい方(ほう)に考(かんが)えているというのは、おかしなことだよね。
しっぱいはしないほうがいい。するとしても、できるだけ小(ちい)さなしっぱいにおさえること。大(おお)きなショックにならないようにすることだ。
そうした心(こころ)がけやしんちょうさが、「しっぱいしてもいい、ステップなんだ」ということのべースなんだということを、わすれてはダメだ。
10.自分(じぶん)をはげます
人(ひと)が自分(じぶん)のために何(なに)かをしてくれることを、期待(きたい)しちゃいけないんだということ。
自分(じぶん)で自分(じぶん)を"やればできる"とはげましながら、ものごとにぶつかっていくことの大切(たいせつ)さ、とうとさ、といったのがあるよね。新司(しんじ)はそう思(おも)ったときは何(なに)かをやっている。人(ひと)にあまえていたり、人(ひと)にたよったり、人(ひと)が何(なに)かしてくれるのを待(ま)っていたんでは、なんにもはじまっていかない。自分(じぶん)でなにかしようと思(おも)ったら、思(おも)い立(た)ったら"自分(じぶん)でやるんだ"って自分(じぶん)に言(い)いきかせて、がんばっていくことだ。
そんなことは、君(きみ)たちの毎日(まいにち)の生活(せいかつ)にいっぱいあったはず。そうしたことを、いくつか中心(ちゅうしん)にして書(か)いていって、新司(しんじ)の場合(ばあい)とくらべて考(かんが)えてみるといいね。
11.人(ひと)の口(くち)
このお話(はなし)の五年生(ごねんせい)の子(こ)たちの「○○が入(はい)っているからだめだ」といういい方(かた)。人(ひと)は人(ひと)に対(たい)して、いくらでもいいたいことを言(い)えるものらしいね。
人(ひと)をころした人(ひと)に向(む)かって「人(ひと)ごろし!」。ふとった人(ひと)に向(む)かって「デブ!」言(い)ってどうなるもんじゃないのに、言(い)ってやろう、と思(おも)わなきゃ、と思(おも)ったりして、すぐに言(い)ってしまう。なぜ?どうしておさえられないの?どんな人(ひと)にだってその人(ひと)なりの思(おも)いや気(き)もちがあるってことをわかりながらだよ。
この本(ほん)の深(ふか)い読(よ)みのひとつには、新司(しんじ)に向(む)かって言(い)いたいことを言(い)ったり、したりする人(ひと)たちのことがあげられる。つまりそれは、君(きみ)のまわりにもいる人(ひと)たちのことだ。それが世(よ)の中(なか)の多(おお)くの人(ひと)のすがただけど、だからそれでいいということじゃない。君(きみ)はそうしたことについて、どう思(おも)う?それを考(かんが)えて、書(か)いてみるといいね。つめたくもなれるし、あたたかくもなる。それが"世間(せけん)"というもののすがたかもしれない。そんななかで、からかわれて、おもしろがられて、時(とき)にバカにされる役(やく)になったブーちゃん、そういうないようで書(か)いてみると、また一味(ひとあじ)ちがったものが生(う)まれていくはずだよ。
12.はじ(恥)
はじをかく、はじ知(し)らず、はずかしい。いったいこのはじとは何(なん)だろうか。
この字(じ)は耳(みみ)と心(こころ)でできているよね。はじについての自分(じぶん)の思(おも)い出(で)なんかをつうじて、このことにはいったい、どんな意味(いみ)があり、どうして人(ひと)はそうしたことを気(き)にしたり、気(き)づかうのかを考(かんが)えてみよう。
13.ごかい
人(ひと)が本当(ほんとう)に思(おも)っていることは、かんたんに人(ひと)にはつうじない。ひょっとすると、人(ひと)の言(い)うことは、みんなごかいされてつたわっているかもしれないね。だからごかいとわかった上(うえ)で自分(じぶん)を表(あらわ)すこと。どうも語(かた)ることが"つうじる"ということではないようだ。人(ひと)は自分(じぶん)の目(め)や耳(みみ)で聞(き)いたものをしんじ、それをうたがおうともしない。ごかいとわかっても、べつに悪(わる)いと思(おも)うわけでもない。それよりもどこかでごかいされるようなことをしたほうが、悪(わる)いことと思(おも)いたいようだ。
だれだってごかいを受(う)けたくない。だけど新司(しんじ)は、ごかいされたままにしていたね。ごかいがいつも自分(じぶん)にとってよいようにすすむとはかぎらない。そこで新司(しんじ)の行動(こうどう)を考えてみよう。
14.身(み)がわり
そのことをさらに考(かんが)えると、人(ひと)の身(み)がわりになってしまうということについてはどうなんだろう、ということになる。それはしかたないということ、身(み)がわりになった人(ひと)をしんじて、いつかは自分(じぶん)の心(こころ)がつたわるだろうと考(かんが)えること、そして、それによって何(なに)かをえるという、三(みっ)つのことが考(かんが)えられる。新司(しんじ)はいったいその意味(いみ)をわかっていたんだろうか。たまたまうまくすんだ、ということだけで、ちょっとようすがちがっていたら、とんでもないことになっていたよね。君(きみ)ならどうする。新司(しんじ)の考(かんが)えは、かるはずみとはいえないかな。
15.しんらい
それは、ちょっとした一方(いっぽう)てきなかたおもいではないのかな。しんらいできることと、しんらいすることとはちがう。そしてしんらいする人(ひと)は気(き)が楽(らく)だ。なぜかといえば、うらぎられたと自分(じぶん)が思(おも)ったら、あの人(ひと)はしんらいをうらぎったと、自分(じぶん)のせきにんとは関係(かんけい)なくそう言(い)ってしまえばいいから。君(きみ)は新司(しんじ)と章太郎(しょうたろう)とのつながり方(かた)をどう思(おも)う?二人(ふたり)のつきあいは、せきにんを分(わ)けてもちあってうまくすすんでいくんだろうか。「がまん」や「かばい」そんな関係(かんけい)でいいんだろうか、もっと他(ほか)に大切(たいせつ)なことがあるんじゃないか。
この本(ほん)はどうも、「新司(しんじ)から学(まな)びました」という文(ぶん)を書(か)いても、新司(しんじ)に対(たい)してひはんてきな見方(みかた)のほうが多(おお)くなりそうだね。ちょっと深(ふか)く考(かんが)えると、いろいろな、考(かんが)えの軽(かる)さやあまえ、一方(いっぽう)てきな友(とも)だちづくり……がみえてくるもの。
それらをひとつひとつテーマにしていってもいいし、ひっくるめて"新司(しんじ)という人物(じんぶつ)"をついきゅうするのもいいね。人物(じんぶつ)について語(かた)るのはとてもやりやすいものだよ。
新司(しんじ)はどんくさいやつだけど、あいきょうはあるし、みょうなみりょくもあるよね。君(きみ)らがかれに、生(い)きるために大切(たいせつ)なことやダイエット(いろんな意味(いみ)の)を教(おし)えてあげてほしい。
もっともダイエットのほうはボクにも教(おし)えてほしいけれど。トホホ……。
※上記の著作権は宮川俊彦にあります。
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※出展:きみにも読書感想文が書けるよ(1989年)
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ブーちゃんの秋
最上一平・作 久米宏一・絵 / 新日本出版社