スーホの白(しろ)い馬(うま)

馬頭(ばとう)琴(きん)という楽器(がっき)がどうやってできたかを美(うつく)しいお話(はなし)にしている。

◎スーホにとって白(しろ)い馬(うま)は、自分(じぶん)の一部(いちぶ)のようなかけがえのない友(とも)だちだった。しかし、うつくしく、はやくはしる白馬(はくば)は、だれでもほしがるかちのあるものである。スーホがけいばの大会(たいかい)に出(で)たこと自体(じたい)が、ひげきをうみだしたとはいえないか、あるいは、かけがえのない馬(うま)を利用(りよう)することで、とのさまのむすめと、けっこんしようとしたスーホの考(かんが)え方(かた)自体(じたい)に、もんだいはなかったか。

◎音楽(おんがく)のやくわり。スーホは死(し)んだ白馬(はくば)から作(つく)った楽器(がっき)をひくことで、くやしさや、楽(たの)しさを思(おも)い出(だ)し、まわりにいる人(ひと)びとの心(こころ)もなごませた。音楽(おんがく)というのはふしぎなものだ。ただの音(おと)のくみあわせなのに、心(こころ)がうきうきしたり、かなしい気(き)もちになったりする。ぼくたちは、なぜ音楽(おんがく)を必要(ひつよう)とするのだろう。また、どんなときに、歌(うた)を歌(うた)ったり、楽器(がっき)をえんそうしたりしたくなるのか。たとえば、「おかあさんはだいどころでほうちょうの音(おと)にあわせて、はな歌(うた)を歌(うた)っています」とか、「山(やま)にきて『ヤッホー』とさけんでみたくなる」なんていうところに目(め)をむけてみるといい。

◎旅行(りょこう)にいって、おみやげをかったり、アルバムに写真(しゃしん)をはったり、ものには、人(ひと)の思(おも)いがつまっている。だから、おなじランドセルにしても、自分(じぶん)と長(なが)くつきあってきたものは、かけがえのないものにみえてしまう。うちがわについたマジックインキのシミや、カッターでいたずらしてはげてしまったところをみるだけで、そのときのことが思(おも)い出(だ)されてくるよね。だれでも思(おも)い出(で)の品(しな)というものをもっている。おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさんに、それをきいてみるのもいい手(て)だと思(おも)うよ。

◎スーホと、白(しろ)い馬(うま)との関係(かんけい)は、ぼくたちがペットをかうのとおなじなのだろうか。ちがうのだろうか。

人間(にんげん)がペットをかうのは、もちろん自分(じぶん)のこのみのあらわれだ。ということは、ペットから、人間(にんげん)の心(こころ)というものを、よみとることができるはずだね。

◎トカゲをびんにいれて、うちにもってかえってきて、おかあさんから、「ダメよ、そんなもの、気(き)もちわるいわね。すててらっしゃい!」なんて、おこられたことってない?ペットだって生(い)きものなら、トカゲや、ゴキブリだって、生(い)きものだ。犬(いぬ)のさんぱつには六千円(せんえん)もかけるのに、ゴキブリなんかは、親(おや)のかたきとばかりに、どくだんごや、ゴキブリホイホイでざんこくにころして、「あーあ、よかった」なんて、どうしていえるんだろう。どうやら、ペットをかわいがる気(き)もちというのは、動物(どうぶつ)を愛(あい)する気(き)もちとは、ちょっとちがうようだな。

 

 

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※出典:きみにも読書感想文が書けるよ

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スーホの白(しろ)い馬(うま)

大塚勇三・再話 赤羽末吉・絵 / 福音館書店