きみも感想文の名人だ

ヤダナー感想文。書きたくないよー。読みたくないよー。書くことないよー。

おもしろくないよー。わかんないよー。

わかったってば。もういいってば。

ニッポン中の感想文だいっきらいの子たちの声が聞こえるなあ。こんなときは、そうだ!ドラえもんをよぼう。いやスーパーマンだ、いやバットマンだ。ウルトラマンだ。アンパンマンだ。ところが、今きみが「おーい」とよんでも来ないんだよ、これが。

おっとっと、わすれちゃこまる。ボクがいるじゃない。ボク。とっちゃまんがとんでいくよ。

とんできたよ。ホラこの本の中。

 

【感想文の正しい書きかたなんてないんだ!】

ね、少し気が楽になっただろう。こんなふうに書かなくちゃいけない。センセイにしかられる。ママにしかられる。みんなにわらわれる……。

そんなことはないの。しかるほうがいけないの。

なにを書いてもいいんだ。なにを思ってもいいんだ。

本を読んで、思ったことを書く。たったこれだけのこと。よく、あらすじを書いて「楽しかったです」「おもしろかったです」「感動しました」なんてさいごに書いておしまいにしている人がいる。それだっていいさ。いいけど型にはまっている(※1) 感じだな。きっとそれっていき苦しいよ。つまんないよ。だから、もっと自由に、もっと楽しく書いてみようじゃないか。

 

※1 型にはまっている=決まりきったやりかたをしている

 

【正しい本の読みかたってあるの?】

あるわけない。きみの前の本はきみのもの。どんなふうに読んだっていい。前から読む。後ろから読む。とびとびに読む。表紙をじっと見てみる。さし絵やイラストを見る。文のとちゅうにある題(小見出し)だけ読む。ねそべって読む。食べながら読む。テレビを見ながら読む。シャワーをあびながら読む(「ぬれるよ!」)。思い出しながら読む。読みくらべてみる。自分をわすれて読む。……。フー。キリがないよね。もう一回言うよ。

どんなふうに読んだっていい。正しい読みかたなんてないんだ。

 

【出会いがあるよ】

そんなふうにしていくと、「あっ!これ、おもしろそう」という本に出会う。

ホント。きみが本と出会うのはそのとき。「読んでみよっかな」と思える本はちゃんとある。

もちろん図かんでもマンガでもいい。新聞記事でもいい。

図書館や本屋さんに行ってペラペラめくってみればいいよ。読みたいものがなければ、その日はそれでおしまい。また行ってみればいいもの。「もう、めんどうくさい」と思ったらカタっぱしから読んでみるのもいい。その中で「これ、なんか気になる本だな」と思える本が見つかるかもしれないそ。いい本に出会うといいな。もっともいい本でなくても感想文は書けるんだけどね。

 

【文はカーテンだ!】

タヌキやカメやサルが話している。太陽と北風も話している。すごく小さいサイズの人も出てくる。ぶどうも、にじも、てんぐも、カッパも話している。人魚も出てくる。

「ゆめ」があるよね。あるんだがー、しかしじっさいは話さない。これは人だよ。登場するものがなんであっても、書き手は人のことをいつも考えているんだ。「人が、どうすればいいか」「人は、どうしたらいいのか」「なぜ人はこうなんだろう」といったことなどを考えていくためにストーリー(物語)を作る。そこには書き手(作者)の考えや思いがある。

文はカーテンなんだ。そのカーテンをあけると、人のドラマや感動的な話がある。人の心がある。人の考えがある。人の生きかたがある。書き手の意見がある。

 

【ウルトラマンと怪獣は同じサイズだ】

「なんでかなー?」と小三の子が言った。これいい「ぎもん」だね。これだけでいい感想文が書ける。

「ボクはウルトラマンを見ていて、フ・シ・ギに思ったことがあります。だって怪獣といつもおなじ大きさだもん」

いいねぇ。すごいねぇ。だれも気がつかないことだ。そしてそこから自分の考えたことを書いていくといいんだ。

おもしろいからいっしょにやってみようか。

ウーム。ウーム。スー、スー、……。「ねないで!」「あっ、しつれい!」

えーと。ウルトラマンというのはたしかサイズを自由にできるんだよね。ものすごく小さくて人の体に入ってしまうような怪獣ともたたかえる。そして東京タワーの百倍の大きさの怪獣のときにもおなじサイズになれる。つまりは大きさを自由に変えられるということだね。

これは調べてわかること。

だったら、そう!もうきみにはつぎの「しつもん」が生まれてくるよね。

「どうせ怪獣をやっつけてしまおうというのだから、しかも三分しかいられないのだから、手っとり早く怪獣の千倍の大きさになって、怪獣をひとふみにして『グチャ』っとやればいいのに」

そのとおり。さんせい!しかしウルトラマンはそれをしない。おなじサイズでギリギリまでたたかって、さいごに勝利する。なぜか。

ウルトラマン=いいやつ=正義

怪獣=わるいやつ=悪

というふうに考えることができるよね。

とすれば正義と悪はおなじくらいの大きさかということになる。さいごに正義が勝つからホッとするけれど、悪ってそんなに大きいのかなー、と思ってしまう。

 

【登場人物はねがいだ!】

正義に勝ってほしい。しかし、かんたんにあっという間にやっつけてしまったら、今まで怪獣に苦しんでいた自分たちが、なさけないものになってしまう。少しはてこずって苦しんで、そのあげくに勝ってほしいと思うのかもしれない。

こんなことも考えられる。いつもいやなやつとか、いじめる子とか、こわいママやパパや勉強という「怪獣」にかこまれているきみとしては、せめて正義はそんな「悪」とおなじサイズであってほしいとかさ。

それからこんなことも考えられる。ウルトラマンは自分が正しいヒーローであるということを多くの人に見せつけるために、みんなの前で怪獣とがんばってたたかうすがたをおしばいしているとかさ。

ね、「ぎもん」への答えがいっぱい生まれて、つぎつぎに広がっていくね。そうだ。これでいい。それはきみの意見だ。考えたことだ。これでもう感想文のもとが完成。

 

【桃太郎はなぜ、「おにたいじ」に行ったか】

ホラ、ここにも「なぜ」がある。

生命をキケンにさらして行くことないジャン。ウルトラマンでもよべばいいジャン。ところが桃太郎は行くのです。たったひとりで。キビダンゴもらって。村の人がひとりもおくりに来ないで。ジーサン、バーサンだけの見おくりで。これってなんかヘンだよね。

村のために命がけで行くというのに、みんな知らんぷり。

じつは桃太郎は、ひとりぼっち。いじめられていたのです。

ウソだうって?イエイエ。いいかい、桃さんは川で拾われてきた子なんだよ。

まして桃の中にいたんだよ。えたいの知れないやつ(※2) じゃないか。

「ママは?」「桃」

「パパは」「桃」

「……」

当時の人にとってはこわいことだよ。「おたがいがよく知り合っていることが安心」という社会だもの。

「あそぼっ」と言っても、「ピシヤッ」とドアをしめられたかもしれない。

きっと桃さんは、「このままでいいのかなぁ」と思ったんだ。みんなにみとめられてヒーローになる。どこかに行ってしまう。じさつしてしまう。みんなをころしてしまう。このままでいる。……いろいろ考えた。

そして「おにたいじ」に行くんだ。村人のために。かなしい決意だよね。だからだれも見おくりにこないんだ。そしてサル・キジ・イヌという、きっとよその村でも人間あつかいされていない人たちとグループを作って行ったんだよ。そうするしかないってことじゃないかな。

そして「おにたいじ」がうまくいった。たから物をうばって帰ると、村人がみんなで大かんげいパーティー。

 

※2 えたいの知れないやつ=正体のわからない、うすきみわるいやつ

 

【これでよかったの?】

ま、いちおうはうまくいった。よかったよかった。めでたし。そうかなー。なかまに入れてもらえるだろうか。ボクは心配でしょうがない。

だれにもできないことをやってのけた桃太郎。今度はとくべつあつかいされてしまわないかな。そしてこわがられないかな。村人にひそかにねらわれてころされないかな。たたかいがあると「桃さん出番です」なんて言われて、一生たたかいの中でくらすしかないんじゃないかな。がんばってがんばって、死ぬまでがんばっていくしかないような気がする。

これでよかったのかな、と桃太郎は夜空を見上げてつぶやくかもしれない。きみ、どう思うかな?

「勇気のある人です」というだけじゃおわらないものがあると思うよ。

こんなふうに感想文は、きみの自由な考えを書いていい場なんだ。「なぜ」からはじまって「きっと」「たぶん」「おそらく」「もしかしたら」、そんなことばをつかって、「そうぞう」を広げていっていいんだ正しい答えなんてないん

だよどこまできみが考えたかがたいせつなんだ

 

【にげた青おに】

ちがうでしょ。泣いた赤おにでしょ。……はい、そうです。

この話って深いよ。

「自分をぎせいにした青おにさんの友じょうに、赤おにさんは泣きました」

「かわいそうなお話です」

そんなふうに書いてしまうんじゃないかな。もちろんそれでもいい。でもきっとみんなそう言うね。「この話はいったいなんなんだぁ!」という「ぎもん」がないとそうなる。ボクは浅いと思う。ワンパターン。

その1 赤おには青おにという親友がいるのに人間と友だちになりたいと言う。それを言われた青おにはどう思っただろう。「ボ、ボクがいるんだ・け・ど……。あのー、ボクにあきてしまったのかな……」なんて思ったとしたらどうだろう。つらくさびしく、きっとうらぎられた気持ちにもなるんじゃないかな。おしばいを考えたのも、もうおわかれだ、と心に決めたからかもしれない。とすればあの立てふだは、赤おにの心に重いにもつをせおわせたものと見ることもできるよね。

その2 見かけがこわいからつきあわないと言う人間。ところがおしばいをすると、いいやつだと言って友だちになる。人間ってたんじゅんだよね。ウソでつきあいはじめたかんけいが長くつづくだろうか。これは、そんな人間

とのつきあいと、ボクとどっちがいいんだよ、と言いたい青おにの気持ちが見えてこないかな。

その3 友だちってなにか、ということも一つのテーマになるよね。そばにいてなんでも話せるのが、いい友だちだと思っているけれど、その中にもルールがあるのかもしれない。きみもつきあわなくなった友だちがいるんじゃないかな。あるいはこの青おにとおなじような気持ちになったこととか。けっきょくだれもいなくなったときとか。新しい友だちとつきあうことで、前からの友だちが遠くなったとか。そんなきみの「けいけん」がこの話といっしょになると深い意見が生まれるよ。

その4 青おには今度はもう一回おしばいをして、人間とも赤おにとも親しくなればいいと思わない?でもしなかった。そして自分だけ去っていく。かなしくてつらい思いを自分ひとりでせおっている感じ。人間とはつきあいたくなかったのかもしれない。「みんなで明るくやろうぜ!」「イェーイ!」というノリではないんだな、この人。

ね、こんなふうに考えていくと、今までとはちがった面がいっぱい見えてくるでしょう。そして自分とくらべて考えていくこともできる。これ、たいせつなことだよ。

「ボクは今日まで青おにでした」なんて文が書けたらおもしろいじゃないか。

これは、ボクたちの身のまわりによくあることなんだ。だれがわるい、だれがいい、ということでもないように思う。友だちとのつきあいについての一つのケース(例)をストーリー(物語)にしているんだよね。「どうすりゃいいんだ」と考えていくのもいいね。

 

【キレまくっているカチカチ山】

この話は何回読んでもおくが深いよ。

第一、いいやつがいない。いたずらタヌキをつかまえて食べようとするジーサン。そこからのがれようとしてバーサンをだまして、そのうえバーサンをころして、ババスープにしてしまうタヌキ。バーサンは早く死んでしまうけれど、いい人とは言えない。だって、食べるために手伝うというタヌキにだまされている。ジーサンとおなじ立場だ。そしてだまされてババスープをのまされるジーサン。同情(※3)してトコトンいじめ、いやがらせをしていためつけ、さいごにはころしてしまうウサギ。つめたい話なのに、なぜかあつ苦しい。

「ここまでする!?」という人たちばかりなのだ。(もちろんタヌキやウサギは人だと考えて)キレてるよね。

きみ、この話の中からどんなことを見つけるかな。「『正しい』っていうことがない話」というのも一つある。「悪人ばかりのサバイバル(生きのこり)」というのもある。それはそれでいいよね。

ボクはこうしたらというアイデアがある。

たとえばさ、登場している「人」のひとりにマトをしぼるということをやったらどうだろう。ここにはジーサン・バーサン・タヌキ・ウサギがいる。だれかにしぼってみようよ。そうするとなにかが考えていけそうだ。

たとえばジーサン……。もとをただせば、この"ざんこくキレキレげき"のきっかけを作ったのはこの人。しかしむかしは野山の動物はよく食べた。「生きる」ためにはなんでもするくらいの気持ちはみんなもっていた。タヌキを食べようとしたこともわるいとは言えない。この人についてテーマにしようとすれば、ひとつぜったい取り上げていいことがある。「なぜ自分でタヌキをうたなかったか」ということがそれ。「かなしんでいたから」は理由としてある。けれど、ものたりない。もっと考えてみよう。

なにがかなしかったのだろう。タヌキを食べそこなった。これもある。でもいちばん大きいのはおくさんであるバーサンをころされて、しかも食べちゃったということだよね。これはジーサンの心がきずつく。自分が食べたというのはキツイ。これだけでもつらいのに、タヌキは「ババスープ(ホントはババ汁だけど)のんだジーサン、ヤーイ」と村中ではやしたてたんだ。「ええっ!」とみんな思うよね。

テレビきょくの人がとんでくる。ジーサンにマイクがむけられる。

「ホントにめし上がったんですか?」

「えー、あのー、タヌキにだまされて……」

「それはいいんです。ババスープをのんだんですね」

「えー、ハイ。……しかしそれは……」

「これでげん場からの中けいをおわります」

これだ。事実だもの。これをやられちゃたまらない。みんながジーサンを「ん?」という目で見る。気味わるがったりする。「ねぇ」などと言い合ってオバさんたちが白い目で見る。

タヌキはこれをのぞんだ。ジーサンはこの村の中でだれからもあいてにされない。身うごきがとれない。死ぬよりもつらいことかもしれない。もしタヌキをころしてごらん。いっそう立場はわるくなる。だから、ウサギにまかせたんだよ。

とまぁ、こんな考えもできるよね。

 

※3 同情=その人の気持ちになって思いやること。思いやり。

 

【アブナイ「同情」】

たとえばウサギ……。なんだろうこの人は。そう考えるとおもしろい。かなしんでいるジーサンに同情してカタキをうつ。つまりはころす。こわいなー。ヤダナー。同惰っていうのは、思いやり、やさしさ、人の立場になって考える、というけっこういいことばのグループに入っているのに、ショックだなぁ。

このやっつけかたを見てよ。とことんやっちゃってるよ。「ウサギが人ごろしをしたのは、同情からでありまして」、きっとそう言われるよ。

同情は人の気持ちとしてはきっとたいせつなものだと思う。けれど、しすぎて行動にうつすときには、キケンなこともあるんだな、なんて考えられそうだ。

ボランティア(※4)はたいせつだけど、人をダメにしてしまうこともあるんだ。あまえさせてしまうこともあるんだって。「やりすぎ」とか「考えちがい」のもっているこわさだね。

同情を理由にしてやりたいことをやった、ということも考えられるね。ころし屋ウサギだったとかさ。

同情したふり。見せかけの同情。そんなこともこの世の中にいっぱいある。どこまで人は人の気持ちといっしょになることができるか。できないものなのか。こんなことを考えると深まるよ。

ひとりの登場人物、登場者にマトをしぼっていくことでも、感想文は書ける

かえって深いところまでいくことができるんだよね

 

※4 ボランティア=自分からすすんで人や世の中のためにはたらくこと

 

 

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※出典:これで読書感想文の名人だ