緑色の休み時間

感想(かんそう)文(ぶん)を書(か)くには、マトがよくみえてないところもあるけど、今(いま)は旅行(りょこう)ブームだし、ひとつ楽(たの)しんで取(と)り組(く)んでみるのもいいんじゃない。

 

1.海外(かいがい)旅行(りょこう)

君(きみ)は行(い)ったかな、海外(かいがい)旅行(りょこう)。そんな自分(じぶん)のことを書(か)いていくとおもしろい。

けっきよく広(こう)太(た)君(くん)もそれだ。一(いっ)か月(げつ)も海外(かいがい)にいられるのは、いい生活(せいかつ)してるんだろうね。最近(さいきん)は五月(ごがつ)の連休(れんきゅう)も夏休(なつやす)みも、かなりの人(ひと)が海外(かいがい)に遊(あそ)びに行(い)くようになったよね。きっといいことなんだろうと、思(おも)っておこう。

旅行(りょこう)の場所(ばしょ)は日本(にほん)ではない。海外(かいがい)だということが、ここでは大(おお)きなポイントだ。しかも住(す)むのではなく、ちょっといるだけ、立(た)ちよっただけということになる。そこで広(ひろ)がる人間(にんげん)との出会(であ)い、つきあい、そして別(わか)れ。やがてみんな元(もと)にもどっていく。つかの問(ま)の日々(ひび)。それを大(おお)きくみて、人生(じんせい)とかくらしとかいう目(め)でみてみると、いいかもしれない。君(きみ)のたいけんを中心(ちゅうしん)にして書(か)いていくと、うまくスベリだすと思(おも)うよ。

 

2.よそ者(もの)

“よそ者(もの)”ということばは、今(いま)の日本(にほん)ではあまり聞(き)かれなくなったね。でも海外(かいがい)ではまだ多(おお)いんだ。イギリスでさえそうなんだよ。外国人(がいこくじん)の旅行者(りょこうしゃ)はどうしても”よそ者(もの)”であって、そこの人(ひと)ではないし、なろうともしていない。

こうした考(かんが)え方(かた)で、その土地(とち)の人(ひと)たちは、自分(じぶん)や自分(じぶん)たち、自分(じぶん)たちの社会(しゃかい)やちつじょをつくっているんだ。国(くに)だってそうかもしれない。日本(にほん)も海外(かいがい)からの人(ひと)をきらうよね。白人(はくじん)はよくてもそれ以外(いがい)はきらいというのは、”よそ者(もの)”という考え方をベースにおいているから。

転校生(てんこうせい)、移住者(いじゅうしゃ)……も”よそ者(もの)”になるということ。こうした考(かんが)え方(かた)についての意見(いけん)を書(か)いていくと、大事(だいじ)なものがみえてくるぞ。

 

3.ウェールズだましい

せいふくされたけれど、英語(えいご)は使(つか)わずに、ウェールズ語(ご)を使(つか)ったり、自分(じぶん)たちだけの文化(ぶんか)を守(まも)ったりしているというのは、ひとつのポイントになる。ひとつのがんこさ、そうしたものを、イギリス旅行(りょこう)の中(なか)で、知(し)ることができたという広(こう)太(た)。

けれどじゃあ、日本(にほん)というのはどうなんだろう。日本語(にほんご)は使(つか)っているけれど、日本(にほん)だけの文化(ぶんか)とかでんとうというものが、どんなふうになっているだろうか。つまり文化(ぶんか)をくちべてみる、ということをしてみるといいわけだ。さらにその中(なか)から、日本(にほん)と日本人(にほんじん)を考(かんが)える。”たましい”ということ、”その国(くに)の人々(ひとびと)の性質(せいしつ)”ということ、れきしや風土(ふうど)などをまじえて考(かんが)えてみると、かなり深(ふか)いものができてくるよ。

 

4.ちがう文化(ぶんか)

もともと人類(じんるい)は、ちがう文化(ぶんか)どうしの交流(こうりゅう)の上(うえ)に、れきしを築(きず)いている。他(ほか)からまったく文化(ぶんか)が入(はい)ってこなければ、よほどのことがないかぎり、ていたいしてしまう。日本(にほん)の中(なか)でも百二十年前(ひゃくにじゅうねんまえ)までは、北(きた)と中央(ちゅうおう)と南(みなみ)と、というふうに、そのそれぞれがひとつのはんごとに、まったくちがった文化(ぶんか)をもっていたし、ひとつのはんの中(なか)でも、ある集落(しゅうらく)とべつの村(むら)とは、ことなった文化(ぶんか)をもっていたりしたものだ。

それがえいきょうしあうことによって、ことなった文化(ぶんか)は時(とき)にはつぶしあい、時(とき)にはのばしあい、時(とき)にはきゅうしゅうされ、時(とき)には合体(がったい)したりする。そんな目(め)をもって、日本(にほん)とイギリス、日本(にほん)とウェールズ、イギリスとウェールズ、それに世界(せかい)の国々(くにぐに)のこと、そして、なぜ国(くに)があって、なぜ文化(ぶんか)がことなって、なぜちがうことばを語(かた)るのか……というようなことをみていくといい。れきしや社会(しゃかい)のちしきをふんだんに使(つか)って、そして今(いま)の世界(せかい)の国々(くにぐに)にある、あらそいや問題(もんだい)を考(かんが)える目(め)をもつといいだろう。これはまた、地球(ちきゅう)と地球外(ちきゅうがい)の人(ひと)(うちゅう人?)や、人(ひと)と他(た)の生物(せいぶつ)などとの間(あいだ)でも、それはいえると思(おも)う。人間(にんげん)の間(あいだ)だけでなく、しぜんという大(おお)きなわくで考(かんが)えると、また一歩(いっぽ)、高(たか)いレベルになっているんじゃないかな。

 

5.英語(えいご)

いつからか、日本人(にほんじん)も英語(えいご)を習(なら)うのが当(あた)りまえになってきたけど、広(こう)太(た)は話(はな)せない。君(きみ)はどうだろうか。

英語(えいご)を学習(がくしゅう)してまたきたいと、ランダルに語(かた)る広(こう)太(た)。けれどランダルは、日本語(にほんご)を学習(がくしゅう)したいとはいわないし、広(こう)太(た)もそういわない。イギリス、ウェールズはその土地(とち)のことばを使(つか)うのが、客(きゃく)”よそ者(もの)”としての礼(れい)だとすれば、日本(にほん)に来(く)る外国人に日本語(にほんご)を話(はな)すことを求(もと)めないで、英語(えいご)を習(なら)ってしゃべるというのもおかしなこと。

英語(えいご)がべんりで世界(せかい)でつうじるなら、いったいどうして英語(えいご)が世界(せかい)のことばになって使(つか)われはじめたのか、その理由(りゆう)を考(かんが)えてみるといい。

また、大学(だいがく)までふくめると、十四年間(じゅうよんねんかん)も英語(えいご)を学(まな)んでいるのに、しゃべることのできない日本人(にほんじん)が多(おお)いということは、今(いま)のことばの学習(がくしゅう)に大(おお)きな欠点(けってん)があるともいえる。それをこのお話(はなし)の中(なか)からみつけていくのもいいだろう。

 

6.ことば

広(こう)太(た)とランダルは、ことばを通(つう)じあえないのにともに行動(こうどう)し、ともに気(き)もちと意志(いし)をつうじあうことができている。それはなぜだろうか。そう考(かんが)えてみよう。ことばにたよって、ことばをもったり、ことばを使(つか)わなければ人(ひと)と人(ひと)とはわかりあえない、などということはない。それよりもっとかんじんなことがある。それはきっと、自分(じぶん)をよりつたえようとか、わかってほしいとかという前(まえ)のめりの心(こころ)、かもしれない。また、たがいに安全(あんぜん)であるとか、よいつきあいができるということの、意思(いし)表示(ひょうじ)としょうめいのしかたなのかもしれない。

そんなことから、君(きみ)たちのふだんの中(なか)で、ことばでしかわからなかったり、ごかいされたりしたケース。ぎゃくに、ことばよりももっとちがうことでつうじあい、わかりあったケース。そうしたことをエピソードとしてあげながら、ことばの大切(たいせつ)さと同時(どうじ)に、そのげんかい、また、ことばにかわるものや、ことばよりもたしかなものについて、君(きみ)が頭(あたま)をヒネっていくといい。これも大(おお)きなテーマだよ。この本(ほん)の中(なか)のポイントのひとつだ。

 

7.へいぼん

ランダルはしろの子(こ)、広(こう)太(た)はちょっとゆうふくな子(こ)。ランダルは母(はは)とわかれて住(す)む。広(こう)太(た)はいっしょにいる。広(こう)太(た)はランダルをとくべつだと思(おも)い、へいぼんな身分(みぶん)がいいと思(おも)う。

けれど人(ひと)の生活(せいかつ)や生(い)き方(かた)に、ふつうとか、へいぼんとか、当(あ)たりまえ、というものがあるのかどうか。人(ひと)がみな考(かんが)え方(かた)、顔形(かおかたち)などがちがっているように、人(ひと)はみなちがった人生(じんせい)を生(い)きていく。りこんもあれば、二度目(にどめ)、三度目(さんどめ)の母(はは)や父(ちち)をむかえる人(ひと)も、ことなる親(おや)をもつ兄弟(きょうだい)もありうるかもしれない。その中(なか)で、どう自分(じぶん)らしく生(い)き、自分(じぶん)をのばしていくのかが大切(たいせつ)なのであって、ふつうとか、変(か)わっている、などということはきっと自分(じぶん)たちを安心(あんしん)させたくて、くべつしたいから、へいぼんだなんていっていることなのかもしれない。

「へいぼんがいい」ということについての、君(きみ)の考(かんが)えをのべよう。広(こう)太(た)がランダルと出会(であ)い、ともにぼうけんしたことは、へいぼんとはいえない。いつも君(きみ)たちのまわりは、ワクワクドキドキだらけなんだ。それはへいぼんがいいという考(かんが)えに、結(むす)びつくんだろうか。

それがつかめたら、母(はは)に会(あ)ったあとで考(かんが)えこみしょげているランダルに、広(こう)太(た)は何(なに)か気(き)のきいたことをいったはず。

 

8.母(はは)

広(こう)太(た)の母(はは)は、かほこではなくて、あんがいほうりっぱなしだ。

また、ランダルの母(はは)は、自分(じぶん)の愛(あい)をつらぬいて、出入(でい)りの庭(にわ)しょく人(にん)とけっこんして、ランダルをおいていった。それをゆるさぬおばあさん、いつも手紙(てがみ)を送(おく)ってきていたランダルの母(はは)。

そこにあるのは、がんこなウェールズの女(おんな)の人(ひと)の二(ふた)つの形(かたち)をもっているね。自分(じぶん)をつらぬく。しんねんをつらぬく。子(こ)を愛(あい)し、親(おや)を愛(あい)していても、それをうらぎる形(かたち)になるとしても、自分(じぶん)は自分(じぶん)の愛(あい)をつらぬいていく。そういう一人(ひとり)の人間(にんげん)の生(い)き方(かた)のドラマも、ここにはあるんだ。

りこんがふえ、君(きみ)たちの中(なか)にも、そんなけいけんをした人も多(おお)いかと思(おも)う。そうでなくても、ドラマや人(ひと)の話(はなし)なんかを、君(きみ)たちなりに聞(き)くなかで、いろいろと思(おも)うところもあるだろう。そこを考(かんが)えてみるのもいいと思(おも)うよ。

それは「親(おや)の身(み)がって」とか「子(こ)どものことはどうなるの」といった意見(いけん)に対(たい)して、君(きみ)はどうか、ということだね。

ランダルもかくされていた手紙(てがみ)をみてないたけれど、そうだからといって、おばあさんをにくむだろうか。またこの先(さき)、母(はは)とくらしていけるだろうか。人(ひと)は、それぞれがのりこえなくてはならない、その人(ひと)なりのじじょうがあり、それを前(まえ)にして、あれこれ思(おも)いなやむなかで、新(あら)たな生(い)きる道(みち)をみつけていくものらしい。

広(こう)太(た)とともに、ことばでないつながりをもったことでボクには、何(なに)やらランダルの心(こころ)の中(なか)に、大(おお)きく考(かんが)えるきっかけが生(う)まれてきたように思(おも)えるんだけど、君(きみ)たちはどうかな。

 

9.ゆうじょう

こんなことばを、不用意(ふようい)にもち出(だ)すのは気(き)が引(ひ)けるけれど、ここでの二人(ふたり)の少年(しょうねん)のつながりは”ゆうじょう”のひとつの形(かたち)(すがた)を示(しめ)しているとは思(おも)う。

出会(であ)い、たがいに気(き)になりながら、目(め)をかわしあうこと数度(すうど)。そして、ともに何(なに)かすることで、きょうつうのたいけんをもつことで、それをなしとげることで、深(ふか)まっていく二人(ふたり)のきずな。

どうやらそうしたことも、この本(ほん)の中(なか)のひとつの大(おお)きなポイントであるようだね。

君(きみ)たちのゆうじょう、その出会(であ)いと深(ふか)まり、それをこの二人(ふたり)の少年(しょうねん)にてらして見(み)せてほしいな。「ゆうじょうは大切(たいせつ)」といった、きまりきったことを言(い)うのではなく、その中(なか)での心(こころ)のゆれ、不安(ふあん)、期待(きたい)、しつぼう、喜(よろこ)び、かんげき、おもい、などをあますところなくふりかえり、それをもとにして、”ゆうじょう”を考(かんが)えていくといいと思(おも)う。

“ゆうじょう”とは、あるのでもつくるのでも、ゆうじょうとか友人(ゆうじん)の形(かたち)に自分(じぶん)たちをはめることでもなく、ともに育(そだ)てていくことといえるかもしれない。

君(きみ)たちは出会(であ)いの時(とき)、「友(とも)だちになろうよ」といったか、「友(とも)だちだからね」といったか。この二人(ふたり)の少年(しょうねん)はそれを口(くち)にしないけれど、さわやかに心(こころ)が通(つう)じあった。

ことばによってたがいをしばりあうことは、さわやかさをなくしてしまうような気(き)さえしてくるね。

大(だい)しぜんの中(なか)での出会(であ)い。そこをヒントに考(かんが)えてみるのもいいだろう。

 

10.ともに……

この本(ほん)の中(なか)で、もうひとつテーマになるのは「ともに」ということだ。

ともに山(やま)に登(のぼ)り、ともに何(なに)かをして……。その「ともにする」というところに、人(ひと)と人(ひと)がつながる、大(おお)きな理由(りゆう)があるように思(おも)うんだよね。

どうして、なかよくならないのか。なかよくしようと思(おも)うだけでもたよりない。そこにいっしょに川(がわ)をわたるとか、いたずらをするとか、いっしょに歩(ある)くとか……、そんなことがあって、ゆうじょうは深(ふか)まっていくんだろう。

家族(かぞく)もまた、はなれていて、バラバラのことをやっていると、きずなは弱(よわ)い。いつも同(おな)じ家(いえ)の中(なか)でともに時(とき)をすごし、ともに何(なに)かをやるから、むすびつきができていくんだね。

そんな「ともに」というキーワードをもつと、この二人(ふたり)の少年(しょうねん)の心(こころ)から学(まな)ぶところや、ランダルの親(おや)のことなどをみる目(め)がつくられていくだろう。

ボクたちは「ともに」何(なに)かをすることをしているだろうか。そんなたいけんが親(おや)とたびたびあるだろうか。一人一人(ひとりひとり)が自分(じぶん)かってになっていく中(なか)で、ひょっとしたら、そんなことがなくなっていきつつあるかもしれないね。

また、文明(ぶんめい)の日本(にほん)としぜんのウェールズ、という見方(みかた)もできるかもしれないね。

 

11.出会(であ)

いってみれば、人(ひと)の一生(いっしょう)とは、人(ひと)と出会(であ)って、はなれて、わかれていくということでしかない。君(きみ)もはじめに親(おや)と会(あ)って、それからいろんな人(ひと)と会(あ)って会(あ)いつづけたり、一度(いちど)はなれて、ふたたび会(あ)ったり、そうするうちにやがて死(し)をむかえ、一生(いっしょう)のわかれとなるということさ。そんなものなんだな、人(ひと)の生(い)きるすがたというのは、と思(おも)ってみたらどうだろう。

世(よ)の中(なか)なにが起(お)こるかわからない。「またきっとくるからねー」といった広(こう)太(た)がひこうきじこで死(し)んだり、ランダルがお城(しろ)のてっぺんから落(お)ちて死(し)んだりするかもしれないよ。そうなると、やくそくした再会(さいかい)ができなくなる。それもありうることだよね。

ということは、人(ひと)は、明日(あした)とか、来年(らいねん)とかがずっとあると信(しん)じていながら、どこかで、これで二度(にど)と会(あ)えないかもしれない、と思(おも)う心(こころ)もなくてはいけないようにも思(おも)う。

そうしたことを考(かんが)えると、今(いま)、目(め)の前(まえ)にいる人(ひと)、今(いま)、自分(じぶん)のまわりに生(い)きている人(ひと)たちとのつきあいや出会(であ)いを大切(たいせつ)にして、もうこれっきりかもしれないという思(おも)いでつきあうことが、とても大切(たいせつ)なことになってくる。

〝一期一会(いちごいちえ)〟という日本(にほん)の茶道(さどう)の心(こころ)も学習(がくしゅう)してみてほしい。そうしたところから、かなり深(ふか)い根(ね)のある意見(いけん)が生(う)まれていくだろう。

いつかはごかいがとける、いつかはわかってくれる、というような時(とき)をたよることが、はたしていいことなんだろうか。

これはむずかしいことだけれど、考(かんが)えどころだと思(おも)うよ。

 

今(いま)の世(よ)の中(なか)のようすに、ヒントをえた作品(さくひん)といえるね。”人(ひと)”について、”風土(ふうど)・しぜん”について、”人(ひと)と人(ひと)との関係(かんけい)”について、さらには、それらをつつんだもっと大(おお)きなテーマについて、いろいろな角度(かくど)からみてみることができると思(おも)う。一歩(いっぽ)ふみこめば、大(おお)きく広(ひろ)がっていくとみていい作品(さくひん)だ。

この二人(ふたり)の少年(しょうねん)のことだけに目(め)をとられると、”感情論(かんじょうろん)”だけで終(お)わってしまう。二人(ふたり)をとりまくものにどれだけ目(め)をやり、君(きみ)の意見(いけん)を入れるか、これがこの手(て)の作品(さくひん)の読(よ)み方(かた)としては大切(たいせつ)なところだね。

でも、こうしたおしろを、日本人(にほんじん)が買(か)ってるんだってさ。なんか考(かんが)えちゃうな。

 

 

※上記の著作権は宮川俊彦にあります。
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※出展:きみにも読書感想文が書けるよ(1989年)

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緑色の休み時間

三輪裕子・作 いせひでこ・絵 / 講談社