子だぬきタンタ化け話

何(なに)かに化(ば)ける(へんしんする)ことができたらいいなあ、と思(おも)ったことはないかな。鳥(とり)、花(はな)、動物(どうぶつ)、自動車(じどうしゃ)、すきな子(こ)の友(とも)だちに、なんていうのは虫(むし)がよすぎるよ。でも考(かんが)えてみると、人(ひと)っていろんなものになれるし、化(ば)けることもできる。ひょっとしたら、たぬきよりもうまいかもしれない、と思(おも)い直(なお)してホッとした。

 

1.化(ば)ける

さいしょに君(きみ)たちが考(かんが)えるのが、このことじゃないかな。

「化(ば)けられたらいいのにな」と書(か)いて、自分(じぶん)が化(ば)けたいものを書(か)いてみるというのもひとつの方法(ほうほう)だけど、よくあるパターンだね。やや古(ふる)くさくて、かわいすぎる。

人(ひと)はぜったい化(ば)けられない、という考(かんが)えをくつがえして、人(ひと)ほどうまく化(ば)けるものはない、というふうに考(かんが)えてしまうとおもしろくなる。じゃあ、人(ひと)はどうやって化(ば)けているんだろう。何(なに)に化(ば)けているんだろうか、と考(かんが)えていく。そうすると、いくつかのアイデアが生(う)まれてくるんだよ。

①  見(み)えるものとして考(かんが)えると

・着(き)るものが変(か)わると、その人(ひと)がどんな人(ひと)だかわからなくなってしまう。まずしい服(ふく)とぜいたくな服(ふく)

・整形手(せいけいしゅ)じゅつ……、ちょっといじるだけでも化(ば)けることになる

・けしょう、さいきんは男(おとこ)の人(ひと)もする

・ふんいき――明(あか)るい、暗(くら)い、陽気(ようき)……

・ひょうじょう

・スタイル

・からだをかくしたり、ふく面(めん)をかぶったり

・子(こ)ども――おとな――死人(しにん)――ほね

・へんしん……仮面(かめん)ライダーみたいに

② えないものとして考(かんが)えると

・考(かんが)え方(かた)

・もくてき

・生(い)きる場所(ばしょ)、生(い)き方(かた)

・感(かん)じ方(かた)

・心(こころ)

・よい人(ひと)――悪(わる)い人(ひと)

………

考(かんが)えているとキリがなくなって、頭(あたま)がイタクなりそうなので、このへんにしておこう。あとは君(きみ)たちで、すきなように考(かんが)えてほしい。

“化(ば)ける”ということばの意味(いみ)を、もっと広(ひろ)くして考(かんが)えてみることだ。そういうところから、人(ひと)も化(ば)ける、タンタも化(ば)けるという、君(きみ)たちとタンタのきょうつう点(てん)がみえてくる。

 

2.なんで化(ば)けるのか

これがつかめないと、てんでお話(はなし)にならない。タノスケは「生(い)きるちえ」という。人(ひと)の場合(ばあい)は……、ウームやはり「生(い)きるちえ」かな。ここらあたりまでいくと、もう君(きみ)たちもなんとなく書(か)くべきことが、ぱっとうかんでくるんじゃないかな。

 

3.はい、いいえ

コンピュータと同(おな)じ。やはりタノスケも先生(せんせい)にはきびしく教(おし)えられる。「うん」「いいよー」ではダメなんだ。「はい」「いいえ」、これがものを教(おそ)わる時(とき)のれいぎ。

教(おし)えられるには、教(おし)えてもらえるだけのことをして、その世界(せかい)のルールにしたがわなくてはいけないんだろうか。

べつにタヌキの世界(せかい)は学校(がっこう)教育(きょういく)じゃないと思(おも)うけど、だからこそ、教育(きょういく)されるほうの心(こころ)のじゅんびとか、考(かんが)え方(かた)やしせいのようなものが、みえているように思(おも)える。

ここで、教育(きょういく)される場(ば)にいる君(きみ)たちのふだんの生活(せいかつ)とか、先生(せんせい)のやりとりなんかを中心(ちゅうしん)に書(か)きながら、考(かんが)えてみるのもおもしろい。

たぶん、君(きみ)たちは学校(がっこう)で、自分(じぶん)を知(し)って、化(ば)けたりすることを習(なら)ったり、また頭(あたま)をからっぽにすることを学(まな)んでいるのかもしれないそ。

 

4.こんき

タノスケはこんきが大切(たいせつ)だといわれていた。こんきとは、しんぼうすること、がんばること、がまんしてひたむきにどりょくしていくこと、ながく続(つづ)けていくことをいう。

それはなにかをやりとげようとするときに、大切(たいせつ)なものではないだろうか。どんなかっこいい仕事(しごと)でも、やっぱりこんきつよくやっていくことによって、人(ひと)にみとめられていったものかもしれないね。また、力(ちから)がなくたって、さいのうがなくたって、ただながくつづけてしんぼうすれば、なんとか人(ひと)にみとめられていくものだ。それはしんぼうという力(ちから)と、こんきという力(ちから)が人(ひと)をなっとくさせるからだ。

よくこのごろは、かんたんに、うまくやってのけることがスマートのようにいわれているね。それはそうかもしれないけど、しかしこんきよく、ひとつのことをやりつづけるという力こそが、さいごには花(はな)をさかせてくれることになるんじゃないかな。

こんきよく人間(にんげん)でいる、こんきよく生(い)きる、こんきよく生活(せいかつ)する、こんきよく何(なに)かをする、なんてことが君(きみ)たちにもあるはずだ。そうしたことをめぐって、自分(じぶん)のけいけんもいれながら書(か)いてみてはどうだろう。

 

5.親(おや)もできが悪(わる)

まったくだね。親(おや)は子(こ)にいろんなことをもとめるけれど、じっさいに自分(じぶん)たちがよくできたかどうか、これはわからない。むかしできたといったって、今(いま)と同(おな)じ勉強(べんきょう)だったかといえば、ボクは知(し)ってるけど、それはずっとかんたんだったんだよ。親(おや)のいうことなんて、あまりあてにならない。ひどいのになると、自分(じぶん)ができなかったことをタナにあげて、「もっと勉強(べんきょう)しろ」とばかりいう親(おや)もいるだろう。

だけど、それはただいっているだけじゃなくて、ほんとうにこれまで君(きみ)たちよりながく生(い)きてきて、勉強(べんきょう)をしなかったり、できなかったことが、とりかえしのつかないことになっていて、そのせいでつらい思(おも)いをしたから、自分(じぶん)の子(こ)にはそんな思(おも)いをさせたくない、という気(き)もちでいっているのかもしれない。

とすれば、親(おや)が勉強(べんきょう)、勉強(べんきょう)というのは、そんなねがいが入(はい)っているともいえるね。

でも、やはりこのタンタの親(おや)のいうことばは、子(こ)どもとしてはホッとするよね。よーし、と父(とお)さん母(かあ)さんよりも先(さき)にすすんで、もっとできるようになろうと思(おも)うことができるからね。子(こ)どもにとって、親(おや)はもくひょうのひとつ。まずそこをのりこえようとしていくといいんだ。君(きみ)たちの親(おや)はどうだろう。君(きみ)たちの前(まえ)でタンタの親(おや)みたいに、かっこつけないで、正直(しょうじき)に話(はな)してくれているかな。

そこのところをくらべてみるのもおもしろいそ。

 

6.生(い)きるちえ

ひとつ大(おお)きなポイントとなる文(ぶん)がある。人(ひと)が平和(へいわ)で安定(あんてい)した生活(せいかつ)をしていると、タヌキも安定(あんてい)した生活(せいかつ)をして、化(ば)けることをしなくてもいい。けれど人(ひと)の生活(せいかつ)が苦(くる)しくなると、その生活(せいかつ)のために、タヌキもとられて売(う)られたり、殺(ころ)されたり、食(た)べられたりしてしまう。平和(へいわ)なときのタヌキは化(ば)けなくてもいいから”化(ば)け力(ちから)”が弱(よわ)い。でもここ数年(すうねん)は、”化(ば)け力(ちから)”が強(つよ)くなってきているというところについてだ。

自分(じぶん)たちの生活(せいかつ)が著(いちじる)しくなると、生(い)きるちえとしての”化(ば)け”がひつようになる。

ちえというのは、生(い)きるため、きびしい生活(せいかつ)にたえるために身(み)についていくものじゃないかな。

とすると、人(ひと)は、君(きみ)たちは、どんな生(い)きるためのちえをもっているんだろう。それは親(おや)や先生(せんせい)から教(おし)えてもらっているだろう。そのへんを考(かんが)えてみるといいね。

 

7.みんないっしょに平和(へいわ)にくらす(人(ひと)とタヌキ)

動物(どうぶつ)も、人間(にんげん)もみんななかよくくらしていけたらいいね。けれど『鶴(つる)になったおじさん』のところでも話(はな)すけれど、人間(にんげん)は、他(ほか)の人(じん)とくらべて、自分(じぶん)にとってトクかどうかということで、もののかちを決めてしまうんだ。おしょうさんはドロボウをつかまえるきょうりょくをしてくれたんだから、タヌキをころさずなかよくしろと村人(むらびと)にいったよね。けれど人間(にんげん)は自分(じぶん)たちが苦(くる)しくなると、またその教(おし)えを破(やぶ)ってしまう。人(ひと)は自分(じぶん)たちのつごうで、生(い)き物(もの)をころしたり、かわいがったりする。タヌキが、そうしたあぶない人間(にんげん)のせいしつをわかった上(うえ)で、人(ひと)とつきあっていくというのは、たいそうたいへんなことだよね。

そうしたことを平和(へいわ)というのかもしれない。とすれば、人(ひと)と人(ひと)もまた同(おな)じだといえなくもないよね。人(ひと)のつごうということを考(かんが)えると、ちょっと味(あじ)のある文(ぶん)が生(う)まれてくると思(おも)うよ。

 

8こい

そんなことをいったらわらわれちゃいそうだけど、でもこれはかわいいこいなんじゃないかと思(おも)ってしまうんだ。はつこいだろう、きっと。いつもそのチヨちゃんのことが頭(あたま)の中(なか)にあって、気(き)になって仕方(しかた)がない。そんなおもいは君(きみ)たちみんなも、かならずといっていいほどけいけんがあるはず。ボクも、ようちえんのころからすきな人(ひと)は毎年(まいとし)、かならずいたよ。君(きみ)たちのこい……、すきな人(ひと)、いつも頭(あたま)にうかんでしまう人(ひと)、そんなことを考(かんが)えながら、自分(じぶん)のけいけんをまじえて書(か)いてみると、なかなかのものになるんじゃないかな。

感想(かんそう)文(ぶん)で自分(じぶん)のこいを書(か)いたものは、小学生(しょうがくせい)、中学生(ちゅうがくせい)ではあんまりないものね。だからいいんだよ。人(ひと)をすきになり、愛(あい)することは、人(ひと)としてもっともすばらしいことなんだから。

タンタはそのむすめに何(なに)もつたえず、何(なに)もできず、わかれてしまったね。そのもどかしさや、心(こころ)の中(なか)がなんとなく君(きみ)にはつたわってこないかい?

お母(かあ)さんの病気(びょうき)を心配(しんぱい)して、おじぞう様(さま)にねがいをかけにくるすがた、その心(こころ)にタンタはきっとひかれるものがあったんだ。いい子(こ)、かわいい子(こ)、気(き)になる子(こ)、このチヨとの出会(であ)いから、タンタはなんとなく、ひとつ成長(せいちょう)しているように思(おも)う。

人(ひと)を考(かんが)え、人(ひと)を思(おも)い、気(き)にかけ、見(み)まもり……、そんなところに何(なに)やら大切(たいせつ)な、人(ひと)としての成長(せいちょう)のヒミツがあるようにも思(おも)えるんだ。こいは人(ひと)を強(つよ)く、大(おお)きくさせるとか。

 

9.すくえない

化(ば)ける力(ちから)をもっていても、思(おも)う心(こころ)はあっても、やはりすくえないものはすくえない。人(ひと)の病気(びょうき)、人(ひと)の死(し)を、タンタはすくえないし、このチヨという子(こ)のさびしさをなぐさめることもできない。化(ば)けて母(はは)となって出(で)たとしても、それはやっぱりウソでしかなく、人(ひと)の幸(しあわ)せはお金(かね)では買(か)えないものだ。その時(とき)はよくても、いずれはもっと大(おお)きな不幸(ふこう)をまねくかもしれない。

母(はは)に化(ば)けてじぞう様(さま)のうしろから出(で)て、ずっとくらすこともできるんだろうけど、サテ、どんなものか。

そんな”もしも”を考(かんが)えてもいいんじゃないかな。また、”お母(かあ)さんぽとけ”かなんかになって、チヨの前(まえ)にちょいちょいあらわれて、なぐさめることもしようと思(おも)えばできたんだ。だけど、それをしなかったのもまた、タンタらしくていいのかもね。

 

10.絵(え)

なんとゆかいで、のどかで、あたたかくて。この絵(え)の描(か)き手(て)は、一本(いっぽん)一本(いっぽん)の線(せん)にも表情(ひょうじょう)をもっているようだ。

この絵(え)について、ぜひ感想(かんそう)文(ぶん)を書(か)いてみることをおすすめしたい。こりゃなかなかのものだよ。

とぼけている、タンザエモン先生(せんせい)のおいぼれぶりもかんじがでている。頭(あたま)の中(なか)にその世界(せかい)がうかんできそうだね。

文(ぶん)を読(よ)めば、頭(あたま)の中(なか)にその世界(せかい)は広(ひろ)がっていくけれど、絵(え)もまた大(おお)きく広(ひろ)げてくれるよね。絵(え)は動(うご)かないけれど、頭(あたま)の中(なか)では自由(じゆう)に動(うご)かすことができる。そうすることがひとつの絵(え)をただ見(み)ているより、もっとゆたかでおもしろい。自由(じゆう)に、そうそうしていくことがなにより楽(たの)しいよね。この本(ほん)のストーリーは、読(よ)み終(お)わってから、もう一度頭(いちどあたま)の中(なか)で目(め)をつむって、そうぞうして、それぞれ絵(え)のコマを動(うご)かしていくと、きっとおもしろいと思(おも)うよ。

そんなお話(はなし)とさし絵(え)から生(う)まれる、絵(え)の向(む)こうの楽(たの)しい世界(せかい)を、たいけんしてみてもいいんじゃないかな。

 

11.一心(いっしん)

一心(いっしん)に思(おも)いつづけると、すがたもかわるとタンザエモン先生(せんせい)はいう。これは化(ば)け話(はなし)というより、人(ひと)の生活(せいかつ)の中(なか)でもそうじゃないかな。

「いやだなあ、なんだあんなやつ……」と、一心(いっしん)に思(おも)いつづけていると、きっとその人(ひと)のまえで自分(じぶん)のひょうじょうやすがたはかわってしまうだろう。明(あか)るくしようとすればできるし、何(なに)ものかになろうとすればきっとできるように思(おも)う。一心(いっしん)に思(おも)うこと、思(おも)いつづけることで自分(じぶん)はかわっていく。

それは、タヌキ世界(せかい)だけの話(はなし)ではないよね。

 

12.思(おも)

だれかがきっと見(み)ていてくれるということで、人(ひと)は幸福(こうふく)な気分(きぶん)になれるものかもしれない。チヨはタンタがこんなに気(き)にかけていることなど知(し)らないで、きっと一生(いっしょう)を終(お)えてしまうだろう。

このように世(よ)の中(なか)では、その人(ひと)は知(し)らなくても、だれかがじっと気(き)にかけて見(み)ていてくれるということがあるもの。自分(じぶん)が気(き)づかないというだけの話(はなし)だ。そんな人(ひと)がいるんだと思(おも)うだけで、なんとなくホッとするし、はずかしいこともできないな、ということがわかるようにもなる。

「だれにもわかんないからいいや」と悪(わる)いことやはずかしいことをしたとしても、ことによると、だれかがじっとそんなすがたを見ているかもしれない。君(きみ)もそうだろう。だれかに目(め)がいき、なんとなく見(み)てしまうということがあるはず。気(き)になる人(ひと)とは、何回(なんかい)か、会(あ)ったりもするものだ。そんなこともあったのではないだろうか。

 

13.わらい

それこそわらいってものは、一番(いちばん)大(おお)きなはげましかもしれない。もやもやが晴(は)れていくときのタンタ。そうしたのはひょっとしたらタンザエモン先生(せんせい)がマツボックリに化(ば)けたその上(うえ)に、もうひとつ化(ば)かしたともいえるよね。わらいのなかで、おおわらいをしていくなかで、人(ひと)と人(ひと)とがなかなおりしたり、より深(ふか)くむすぴあったりすることもあるもの。

わらいこそが一番(いちばん)大(おお)きななぐさめであり、プレゼントなんだ。君(きみ)たちも、わらいを人(ひと)にあたえられ、おおわらいの日々(ひび)をすごすごとができたら、幸福(こうふく)かもしれないね。

 

ただおもしろいとか、ストーリーだけを追(お)って読(よ)んでいると、こうした本(ほん)は感想(かんそう)文(ぶん)が書(か)きにくくなるものだ。またこの話(はなし)は、読(よ)んでいくなかで場面(ばめん)は進(すす)んでいくけれど、それに合(あ)わせて、テーマがはっきりしていくというのでもない。

この本(ほん)は感想(かんそう)文(ぶん)を書(か)くにはむずかしい。でも、今(いま)まであげた十三の読(よ)み方(かた)のれいを切(き)り口(くち)とすれば、どうにかテーマが見(み)えてくるはずだ。

読(よ)んでおもしろいということと、感想(かんそう)文(ぶん)が書(か)きやすいということ、これはちがう。こうした物語(ものがたり)をクリア(読(よ)みこんで感想(かんそう)文(ぶん)を完成(かんせい)させる)したら、じしんをもってよ。

 

※上記の著作権は宮川俊彦にあります。
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※出展:きみにも読書感想文が書けるよ(1989年)

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子だぬきタンタ化け話

森山京・作 渡辺三郎・絵 / 教育画劇